日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

手を振るということ

さようなら、気をつけて、また会おうね、。

手を振る時って色々な状況や気持ちがあるのだと思う。

友人から少し嬉しいお話を聞いた。

郷里に里帰りしていた友人。彼女が東京に戻る日に駅のホームに行くと、自分の乗る一つ前の列車のドアが丁度閉じたという。ホームを列車が離れていくとき、その列車の車掌さんは指差喚呼の後ずっと乗務員窓から身を出して乗り出して安全確認をしていたという。駅では当たり前の風景でもある。

それは単なる好奇心なのか、思いつきなのだろうか。友人は車両が目の前を通過して去っていくまで車掌さんに手を降ってみようと急に思いたち、実践したという。

手を振られている車掌さんはしばらくはこのホームの客人が誰に対して手を降っているのかわかららずにキョトンとしていたようだが、やがてその対象が自分と知ると、ためらいがちに手を振り返してくれたという。同行していた彼女の連れの方は、却ってその手が誰に対して振られているのかわからずに面食らった様子だったという。

そんなことがやたら嬉しかったと、弾んだ声で話してくれた。「何であんなことをしたのかよく分からない。だけど良い気持ちだった・・」

後日僕には長距離夜行バスに乗る機会があった。距離にして800キロ以上を二人の乗務員で交代しながら一晩で移動する。乗務員の年齢は僕と変わらないだろう。交代制とはいえ他人の命を預かって夜の高速を安全運転する。800キロという長さもとても長い。大変に疲れる仕事なのは明白だった。
 
何度かのパーキングエリアで停車しながらバスは一路目的地に走る。トイレ休憩の度に「運転ご苦労さま」とごく自然に口に出た。

早朝、目的地に定刻で着く。運転手さんは今度は荷物室の預かり荷物を降ろしてくれる。お礼を良いバスを降りた。

人は一生懸命に弱い。それは心を打つ。地道なことでも懸命な人を見るとエールを送りたくなってしまう。その裏にその人の人生があると思うと、一生懸命が心を打つのも当たり前だと思う。

バスが次の停車地に向けて動き初めて、ふと友人の言葉が頭をかすめ、僕も何故か彼に手を触ったのだった。気づいた運転手さんは窓越しに手を振り返してくれたのだった。笑顔だった。

大の大人が何をやっているのだろう、恥ずかしかったし、けれど嬉しかった。

過ぎ去ったバスを見ながら、そこにあったのは、「感謝」だと気づいた。金を払う。こちらはお客様。それでも相手は何かを最終的には自分のためにやってくれる。

手を振るということには色々な意味がある。さようなら、気をつけて、また会おうね。

そうか、だけどまだある。その奥の一番原始的な感情。「感謝」だな、そんなことに、友人の嬉しそうな言葉とバスの運転手さんの笑顔で気づいた。

若い頃は社会人という仮面をかぶり、そのために人に対して強がるし謙虚でないこともあったと思う。

今は違う。家族や友人との交流も、見知らぬ他人との交流にも、そして、自然現象に対してすら感謝がある。それが年齢を経るということかもしれない。そして、それをひどく、わかりやすい方法で表現することも、僕はこれを機会に厭わないだろう。

単純な行為がピュアな心の現れである、そんなことに気づかせてくれた友人の行いにもやはり「感謝」しかないのだった。

感謝できるという事は、幸いなことだと思う。

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感謝で、手を振ってみたいと思う