日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

新年早々ご苦労さま 雷電山

案の定薄暗い山だな そう彼は独りごとを言っていた。こんな山に登るやつはいないだろう、そう思ったようだが意外に山中では他の登山者に会ったようだ。青梅市のハイキングコースという看板を前に彼は頷いていた。

新年早々彼はなぜあまり楽しそうでない地味な山に来たのだろう。

アマチュア無線という世の中の認知はあまり高くないものを彼は趣味として30年は経つ。正月は多くの無線局が山に登り電波を出す。周波数帯にも依るが基本東京タワーと同じ、高いところからは電波は遠くに飛ぶ。だから山に登る。沢山交信出来る。毎年のはじめに山に登るのは彼のルーティンだった。

登山をする方なら見たことはないだろうか。山頂の一角で釣り竿とアルミパイプやワイヤーなどの妙チキリンな造営物をを立てて、一心不乱に謎の言葉をひとり喋っている人を。あるいは交通整理の方が手にするようなカタマリを手に握りしめてそこに語りかけている人を。彼らは自己の世界に没入し一応にシーキューシーキューと、まるで蒸気機関車のピストン運動のように呪文を唱えている。

どうか多めに見てほしい。電波という見えないモノに自分の声が乗り、誰とも知らぬ人がそれに応答してくれることに喜びを見出して人がいることを。喋るばかりでなく時に彼はトンツートンツーとモールス信号を発信し解読する。別にスパイを目指しているわけではない。更に彼は電気回路、高周波回路の本を読み、工具片手に技術を研鑽している。努力しているのだ。人によっては無線機を自分で作るツワモノもいる。少なくともアンテナや、電源周りなど周辺の装置はちょちょいのちょいと自分で作ったり改造したりするのだ。彼らにテスターを渡し、半田ゴテを手渡すべきではない。更に向こう側に行ってしまうだろう。

しかし彼らは知っている。何事も我が手を加えた器具が実用的で未知なる実力を発揮するのなら、これほど科学的好奇心を刺激するものはないという事を。

鼻水を垂らしたような小僧の頃から、週間少年漫画の裏に書かれた広告、「趣味の王様アマチュア無線。ハムになろう」。そんな1ページに心惹かれて今の彼がある。ハゲ頭のその中は、驚くほどに純朴な子供そのものだ。

植林に囲まれた日の差さない山頂に寒そうに震えながらも謎の言葉を発している彼は誰が見てもくたびれたオジサンだ。そんな彼が特に展望も期待できないこの山を歩いているのは単に都会の近くの山で電波が良く飛びそうだったからだ。強いて言えば「雷電」という名前にも惹かれた。三菱が作った局地戦闘機だ。彼はプロペラ戦闘機マニアでもあったのだ。

多くの局と交信しようという思惑も寒さの前に萎えたようだ。2,3局と交信したようで、彼は不思議な道具をザックに仕舞った。どうやら科学的好奇心をも年齢と気温には弱いようだ。しかし彼は一応は来る人に気を使うようだ。「すみませんね、うるさくて。景観乱して」と。

長い山道を彼はたどり行程の最後に鉄道公園があるのを目にして彼は夢中にシャッターを押していた。閉館していたが庭にある錆びたレールに乗ったチョコレート色旧型国電を前にして、彼は恍惚の表情だった。

傍にはスパイ活動としか思えないアマチュア無線、プロペラを回して飛翔するジュラルミンの鳥、そして古びた鉄の車両とレール。ヲタク趣味のデパートの彼も普通に社会生活をしているようだった。なんだか電話している。「ごめんね、今下山したよ。夕食なんか買ってこか?」

彼は満足げに電車に揺られ、少しうたたねをする。さしずめ頭の中には無事にルートを歩いた満足感と、また一つ新しいピークに立ってアマチュア無線をわずかでも運用した、そんな満足で満ち足りているのだろう。

こんな奴が周りに居たら、変人としか思えない。うたたねから覚めて、はっと彼は周りを見回した。なんと、変人はまさに自分だった。新年早々ご苦労様だった。

* *

毎年正月2日3日は、日本アマチュア無線連盟が主催する行事がある。「QSOパーティ」と呼ばれるそれは、既定の局数を交信すると連盟から干支のステッカーが貰えるという。それで十二支を集める。それを何ラウンドもしている強者もいる。自分はステッカーには興味もなくただ山に登ってせいぜい5局程度と交信するだけで満足する。毎年続けているとそれがルーティンになり、山に登らないと年が始まった気がしなくなる。今年こそは「普通のお正月」を過ごそうとしていたがやはり何かが物足りなかったのだろう。今年も参加した。

山の上から運用しやすい周波数は50メガヘルツ、144メガヘルツ、430メガヘルツ、1200メガヘルツあたりだろうか。いずれも見通しが伸びれば交信距離が延びる。そこに電波形式というこれまた謎な単語が出るのでこれ以上はヲタクは語るべきでもない。個々の周波数に対応できる別々のアンテナと無線機をそれぞれザックに入れて歩いた。善意に解釈するならば、まあこれも体力作り。体が動くことは全くありがたい。来年も何処かに行くことだろう。

・ルート:JR青梅線軍畑駅から車道を北上。30分ほどで榎峠に達し道標に従い右手に雷電山へ。雷電山(494m)は北東方面の僅かな展望のみ。ルートは青梅丘陵ハイキングルートとして整備されており指導標も完備。青梅線の駅へ降りるエスケープコースも多い。ルートの最後は青梅市の鉄道公園。ここから青梅駅は徒歩20分程度だろう。
スマホの計測結果 合計時間: 4時間53分(休憩含む)、平面距離: 11.40km、沿面距離: 11.72km

単三電池四本で動くこの無線機などは大人しいもの。もっとデカいのも持ち歩く。写真は西無線NTS-620 (50MHzSSB/CWトランシーバ)

ハイキングルートは植林帯が続くがたまに広葉樹の林に。すると歩く気分も軽くなる

今回のルート(赤線)。夏は暑くて遠慮したい。適期は晩秋・早春だろうか。(アンドロイドソフト「山旅ロガー」にてデータログ取得)

 

ありがとう母校・箱根駅伝

母校には二つの歌があった。校歌とカレッジソング。前者は式典時に歌われるものだったが学生食堂や購買部でもいつも流れていた。後者は学生の愛好歌で「カレソン」と呼ばれていた。飲み会などで興が乗ると誰からともなく自発的に歌われた。しかし自分はきちんと歌えない。というのも校歌にもましてともに唄う機会が無かったからだ。

体育会やサークル活動に熱中していた学生は少なくともカレッジソングは唄える。学園祭や部・会のイベントの打ち上げなどで想いが泉のように湧き上がり口に出るのだろう。夜の渋谷センター街道玄坂。酔ったサークルメンバーが唄うカレソンは自分の中では渋谷の一風景だ。

自分はサークル活動に熱中した学生時代ではなかった。ベースギターの入ったソフトケースを肩にかけ軽音楽サークルの説明会に顔をだしその足でサークルの集う喫茶店で駄弁った。皆の話す会話が理解出来なかった。皆プロに見えた。自分の入れるバンドはないだろうと尻尾を巻いた。ゼミにも入れずに終わった四年間。学校とは距離感を置いた学生だった。が素敵な仲間は沢山出来た。今でも大切な友人達だ。それが自分の四年間で得た宝だった。

テレビで見る有名なバンドやシンガー、俳優などが先輩・後輩として名を連ねている。そんな学校だった。自分の代で教養課程は厚木市に移転し、都内から自家用車で通ってくるクラスメイトもいた。また流行りのファッションに敏感な学生が集まった。しかし一体いつからだろうか、母校は箱根駅伝の常連となり優勝に優勝を重ねるようになった。監督の手腕はティームマネジメントの好例として「マジック」とも言われた。おお、随分と「キャラ変」したな。と思っていた。

駅伝のルートは自分の家から近い。徒歩15分でルートの国道に出られる。快進撃を続ける母校。「観られるうちに見ておくか」。そう思ったのは、人生いつ何が起きるかわからない、だから気になることがあればすぐにやっておこう、という考えを病気の後に持ったからだった。

さて、どうやって応援するか。やはりここはカレソンだろう。力走する母校の選手を前にカレソンのサビでも歌えば彼も励みになるまいか。

国道迄動画サイトでカレッジソングを聞きながら歩いた。得意な一夜漬けだった。沿道の人の多さにこのイベントの人気が分かった。正月恒例な風景だ。一時間ほどほど待ったら交通が止まり白バイ、パトカーがやってきて上空をヘリがホバリング。にわかにそれらしくなった。中継車がやってきて、トップを走る学生が続いた。母校のカラーのランニングシャツではなかったが挑むように走る学生の姿に、なぜかじわりと目頭が熱くなった。三番目にようやく母校のランナーが来た。緑色のランニングシャツは、緑の旗に月桂樹をあしらった「校旗」の色でもあった。空気が割れ、風があとに残った。

自宅を出る時は八番手あたりだったはずだ。しかしなんと五人をごぼう抜きしたのだろう。彼も負けてはいない。ゴールに向けて正鵠を射るかのごとき迷いのない視線にどーっと涙が出てきた。抑えられない激情だった。一秒もかからずに緑の風は去った。カレソンを歌うどころでもなくただ口走った。「ガンバレー、母校」

トップとの差は8分以上。今から多摩川を越え品川、大手町か。逆転は難しいだろう。順位などどうでも良いのだ。

宮益坂をあがり右手に見える母校。我が学籍番号14182239。今でもそらで覚えている。

学生時代の仲間たちと、また行こう。学食で駄弁ろう、そう話して時間が経つ。何度か学校の前を通ったがコロナで構内に入れない時期もあった。素敵な母校に、今言える。愛着があると。そこで得た何かが今の自分を支えていると。

今度こそ母校に行き、カレソンを歌う。そして購買会で緑色の校旗を買い家に飾ろう。ありがとう、我らが母校。

本当は沿道で振りたかった。この旗を。今度学校へ行ったら、小さい奴でも是非買おう。

 

渋谷駅から金王坂を、宮益坂を登って通った懐かしきキャンパス。自分はここで何を学んだのだろう。

五人をごぼう抜きしたのか。激走する母校のランナーに涙が出た

 

スイセンの小径 津森山

山を歩く気持ち。自分を目一杯勇気づけて登る山もあれば、しっかりとした計画も立てずに気楽に歩く山もあるだろう。前者には革靴に35から50リットルに近いザックが伴侶になるし後者はナイロン靴に25リットルでも持て余しそうだ。

山麓の風景をのんびり味わいながら歩く山は後者と言えた。それがつまらないというわけでもない。小さな山にも必ずを肝を冷やすルートもあれば迷いそうな道も多い。しかし農作業をしているご老人に道を聞いたり堰の門を開けて田に水を入れていく光景を見るのは心惹かれる。里と山が溶け込んだ低山は大きな山にはない魅力がある。

今日の千葉の山もそうだった。千葉の山は最高峰でも400m級。高い山には無縁な場所。この季節の楽しさはスイセンの花だった。スイセンでは全国でも名だたる出荷量という千葉県。東京湾に注ぐ内房の静かな沢沿いの空き地には冬から早春にかけてスイセンの花が咲き乱れる。スイセンロードと名付けられた小径を家内とゆっくり歩いたのは数年前だった。

佐久間ダムの裏手もスイセンが盛りだった。日向ぼっこをしていた公民館。その駐車場で車を停め靴紐を締めた。簡易舗装の道には柔らかな陽光が差し込み今が12月末であることを忘れさせた。目指す山は牛飼い農家の横手からすぐだった。チエンソーの音が聞こえてきておじいさんが古い杉を切り倒していた。そのすぐ先が津森山の山頂だった。

おじいさんの作業は山頂にも至り、過ぐる年の台風影響で荒れた立木を伐採していると言われた。チェンソーを一方向から進めると滑り降りるように立派な木が地面に落ちて、ドシンと山が揺れた。ここまで三十年かかったと言われた。木も荒れてしまい加え輸入材が主流でもう商品価値もないのだという。

山頂でザックをおろした。5,6年前に登った伊予ヶ岳と富山を北東から見ることになった。この二つの山は三浦半島の丘陵に立てばよく目立つ。2つの山の先は東京湾でもあり相模灘でもあった。富山の奥の薄い影は大島に違いなくその左手に尖った山は利島だろう、と、同行した友は言う。

展望に満足し山をおりた。道すがら往復できる人骨山にたちよる。入り口さえ見逃さなければわかりやすいルートで山頂直下には急坂に備えたローブがあった。

簡易舗装の農道に戻って気づくのだった。とても柔らかい匂いがすると。春の匂いだ。しかしもっと甘い。スイセンの花だった。匂いにつられて無人販売所にあった一束を買った。

スイセンの小径は早春の香りに満ちていた。なんとも伸びやかで柔らかい風景だった。

玄関先の水差しに山で買った一束をさした。花はまだ半分程度。そこだけがパアッと甘い匂いに満たされた。それは我が家にやってきた一足先早い春だった。

津森山山頂からは伊予が岳と富山が大きい。しかしその果てに館山の洲崎が、その奥には伊豆大島と利島の影が浮かんでいた。季節は冬でも、春の陽気がそこにはあった。

スイセン咲く里山は甘い香りに満ちていた。無人販売所で一束買って、自宅の玄関で房総の香りを漂わせている。

ルート図。アンドロイドスマホ・山旅ロガーでログ取得したもの

ルート紹介:千葉県鋸南町佐久間ダムの裏手から大崩集落へ。公民館の中止射場から歩き始める。簡易舗装の道が殆どで、牛舎のある農家のすぐ東側から山道に入り津森山へ。農家に戻り時計回りに簡易舗装路を歩き、看板を探して人骨山ヘはピストン行程。

謹賀新年・正月三題

年が明けた。今年はどんな年なのか。自分は周囲に生かされている、そう思う日々が続く。今年もよろしくお願いします、と万物に頭を下げる。

題一 : としおとこ

今年はウサギ年だ。干支が中国から来たと知ったのは仕事で中国系アメリカ人と話していた時。ディナーの時だろうか、「自分はイヤー・オブ・ドラゴンの男だよ」と話してくれた事だった。自分がイヤー・オブ・ラビットの生まれだ、と返すと彼は喜んだ。日本も同じ文化だね、と。米国に住みながらも母国の文化を大切にしている事が素晴らしいと感じたのだった。古い日本の文化的な価値観を当時はつまらないものだと思っていた。しかしそこで、自分も大切にしようと目が覚めた。

考えてみればウサギは素晴らしい。見た目の愛らしさもある。大人しく置物の様にも思える。しかし、雪の山を歩いてみると気づく。彼らがとても活発であることに。雪上に残る独特の足跡は直ぐに彼らのものと分かる。寒さにも負けず動いているのだった。しかし狐の足跡が雪上に別方向から近づいてくるとそこからは生死を掛けた逃亡劇を雪の上に見ることも出来る。足跡の果てが朱に染まっていたら狐が上手。踵をかえす狐の足跡を見つけたらウサギが上手。

としおとこだった。日本の慣習に従うなら「赤いちゃんちゃんこ」になるわけだ。12歳の記憶は小学高の卒業式。24歳の記憶は「彼女」と時を過ごした楽しき日々。36歳の記憶、48歳の記憶、ともにあまりない。24歳の「彼女」は妻になり子育てで忙しかったのだろうか、自分は連続する日々の中に酸欠で喘いでいたのだろうか。赤いちゃんちゃんこをきるかは別として、これからの一回りは長いようでとても短い事を体感している。

逆境にめげずに「跳ねる」。時に予期せぬ天敵に襲われる。それでも「逃げ勝つ」。自分は何をするも”逃げの一手、逃げを打つ”のは昔から得意だった。しかしウサギは跳ね飛ばなくてはいけない。そうしないと天敵は逃げては行かないだろう。見ものな一年が始まる。

題二 : お雑煮

47の都道府県。日本を地方でおおくくりは出来るだろうがそれは乱暴。それぞれ言葉も違えば食文化も違う。香川生まれの両親は歳を経るほどかの地の言葉となった。彼らが納豆を食べているのを見たこともない。三つ子の魂百まで、だろうか。自分も無意識に香川と中高六年を過ごした広島の言葉が出る。

妻と家庭を持ち最初の新年に目の前にしたお雑煮に面食らった。出汁のおすましに焼餅と鰹節が浮いていた。白みそに型抜きした人参やダイコンは何処へ行ったのだろうか。麴すら浮いている甘い白みその汁はどうなった。

だしの深さとすこししょっぱい淡白な味は美味しかったが、年が変わっていきなりお雑煮が変わったことに新しい人生のスタートを感じたのだった。時折母の作るお雑煮が懐かしくも思えたが、頑張って作ってくれる妻の前にそれは言えなかった。他人同士が一つになる。お互いの文化が混ぜ合わさる。そんなものだと思う。そんな母も高齢で昨年あたりから厨房に立つ事も無くなった。母の雑煮に触れたことは結婚後はなく、これからもないだろう。

今朝がた元旦のお雑煮を作りながら妻は言った。「知らなかった。私のお雑煮は福井県のお雑煮らしい」と。30年以上ずっとこれが東京のお雑煮かと妻も自分も思っていたが、彼女も何か思うところがあり調べたのかもしれない。妻は東京生まれだが、福井は三国生まれの祖母の下で育っていた。時折知らないことわざの様なものを口にしたが、それは福井の言い伝え。お雑煮も福井のものだった。

それを聞いて嬉しくなった。年に一度の越前旅行をしていたわけだ。お雑煮は典型的な例だが47の県に散る様々な文化に触れる事は素晴らしい。自分には行き残した県もある。まだやり残しが残っている訳だ。この年齢で宿題があるとは何と魅力的な事だろう。

題三 : 年賀状

小学生の頃の正月の楽しみに年賀状があった。冬休みが明ければすぐに会うはずのクラスの仲間に出す年賀状。はがきを出してそれが届くというシステムに興味があったのだろうか。ワクワクした。多分稚拙な絵を描いて下手くそな字で挨拶を書いたのだろう。親としては郵便代の無駄遣いと思ったのかもしれない。

そんな年賀状も社会人になり家庭も持つにつれ位置づけは変わる。余り几帳面で無く面倒くさがり屋の自分には義務感が先に立ち面倒になった。後回しにしていた行事も会社生活も終わりが見えてくると必要最低限に絞った。友人関係はSNSやEメールで事足りる。ただ、それらの伝手もなく繋がっているのは遠隔地に住む親戚や友人だろう。毎年年賀状をかわす高校時代の友人。一時期彼はアメリカに転勤し連絡は途絶えたが今も中国地方に暮らしている、そんな便り伝えは年に一度の年賀状。

妻が友人から来た年賀状を見せてくれた。ご主人と死別したという連絡はもうふた昔前。しかし今年の賀状には数年前に再婚した姓でこうあった。「今年一月〇日に〇〇県に移住します。向こうで仕事も見つけました。夫婦そろって働きます。遊びに来てね」と。そこは南の県。台風時期は大変だろうが冬も無く長寿の県。これからを過ごすにはいかにも素敵な地だろうと思えた。この年齢で新しい世界へいくのか。…そんな便りは妻も嬉しかったのだろう。自分同様に筆無精な妻がせかした。「年賀状、早く買ってきて」と。

自分宛てに来た連絡の伝手もない昔の友人へようやく返信を書いた。この年齢になると相手の健康をおもんばかって積極的に連絡を出すのもためらわれていたのだ。

年賀状は気をつかう。しかし昨年は年賀状の住所にすがり手紙を出して36年ぶりに再会出来た学友も居た。年賀状のお陰だった。今年はあの高校時代の旧友にまた出してみよう、手紙。そして再会したい。妻はきっと、南の県へ遊びに行くだろう。

連絡。便り。消息通知。手段はハガキでも、SNSでも、Eメールもある。前島密が日本に導入した社会システムは今も形を変え健在で、社会はそれに頼っている。とてもありがたい。それは自分自身に新しい風景を見せてくれるだろう。

恭賀新年。今年もウサギのように元気で飛び跳ねたい。そう念じた。

 

脛に傷あり・Wレバーの締め増し

Wレバーで変速する自転車に魅かれて長い時間が経った。小学生の頃の電飾のついたセミドロップハンドル自転車は今思えばトップチューブに今の自動車のATレバーのような変速レバーが付いていた。せいぜい5段変速だったのか。社会人になってからブームに乗ってやってきたMTBは手元シフト。自分が一番長く乗ってきた自転車はWレバー。これが最も手に馴染む。

当時住んでいたパリ市の「売ります買います」掲示板で入手した1980年代のプジョーの中古ロードバイク。フレームサイズは自分にぴたりだがそこはやはりロードバイク。初めての自分にはギアレシオがきつく思えた。ランドナーの比較的ワイドなギア比に慣れていたからだった。普通なら足を馴れさすのだろうが自分は軟弱だった。入手後そうそうに自転車を馴れさすべく走行系を変更してしまった。

パリ12区で見つけた自転車店。確かバスティーユの近くだったと記憶する。そこにはカーボンやアルミの自転車は一台も置いてなく、街を走る仕事の自転車と、鉄のホリゾンタルフレームの自転車だけを扱っていた。何人かのアルチザンが店内でそれぞれ作業をしているという、今思えば徒弟制度の名残すら感じさせる不思議な店だった。

カタコト以下のフランス語で、ギアを交換したいと伝えた。すると、でかい箱をいくつか出してきた。「ここから付けたいパーツを選べ」と言う事だった。それはガラクタ箱の様相で、宝探しの様だった。フリーは直ぐに見つかった。12-28Tの6段フリーはレジナだった。問題はフロントギアだった。クランクは右クランクだけ憧れの当時モノのストロングライトがあった。ただそれにあうアウターチェンリングは50Tしかなかった。インナーチェンリングは28Tがあった。左クランクは似たデザインの右よりも長さの5ミリ程度短いクランクしかなかった。

左右で長さの違うクランク。アウター50、インナー28という組み合わせ。これで良いのだろうかと思い悩んだ。がその悩みを共有してアドバイスを得るほどの語学力も自分にはなかった。アルチザンたちも又英語は苦手なようだった。自分の狙いはローローでギア比1:1の実現だった。選んだパーツを持っていくと、リアのディレイラーも変える必要があるだろう、と言われた。左右のクランク長が違っても、もともと人間の足とて左右の長さは違うだろう、という乱暴なロジックで自分を納得させた。

案の定リアディレイラーのキャパは不足していて目いっぱいに前に伸ばしてもリアフリーの真ん中迄しかカバーしなかった。リアディレイラーにはサンプレがついていたがどういう訳かロゴラベルが剥がれて無かった。しかもデルリン樹脂は劣化していそうに見えた。交換することに異存はなかった。

プジョーとしてはエディ・メルクス辺りにでも似合いそうなイメージを意図したのだろうか、彼のジャージの如く暖色系のカラーリングを施した折角のフレンチロードバイク。その走行系には事もあろうにロングゲージのシマノが付いてしまった。日仏同盟だ。

フロントの変速には癖があった。インナーにはすぐに落ちてもアウターにはなかなか引っ張り上げられない。50T と28Tをカバーするのは厳しいのだろうか。すんなり入る時とそうでない時もあった。だましだましずっと乗っていたが、ランドナーとはまた違う軽快な乗り具合に自分はときめいた。帰国してランドナーを組んでいただいた自転車店に変速性能について相談する。アウターが48あたりなら楽だろうね、とはいわれていた。しかし万能なランドナーがあるのでそこまで熱心に探せなかった。更には街を走る生活のための自転車の整備に忙しい彼にアウターを探してもらうのも気が引けた。

たびたび手を焼くのでインナーには落とさないようにしていたが坂の多い街でもある。いったんインナーに落としたらとうとうレバーでは戻らなくなってしまった。手で持ち上げるしかない。神経質な変速性能で坂道の多い遠乗りはちょっと。目下は街乗り専門。とはいえ自転車さんの前を不都合な組み合わせで走っていたら丁度ご主人は作業中。これはちょっとコツを、と門を叩いた。

ご主人にすぐに言われた。「レバーはいったん忘れて、ワイヤー自体を人差し指と中指で引っ張り上げてください」。成程、あれほどてこずったアウターにすんなりと入った。指でワイヤーを引っ張り強制的にフロントディレイラーをアウターポジションに移す訳だ。

目からうろこ、とはこの事か。「Wレバーとワイヤーを締めるネジは緩むものです。緩んでいたからパンタグラフが動き切らないのです。そこでしっかり締めて」そう言ってマイナスドライバーを手渡された。確かに入手してから15年近く一度もここを締めたことはなかった。それからは嘘のようにアウターに容易に入るようになった。

左右長さの違うクランクに無理なギア設定。そんな思いが常にこの自転車にあった。完成されたメーカー品を自分の都合で変えてしまった訳で「脛に傷がある」と勝手に思っていた。しかしメカは正直で、一度動いたものはメンテをすれば動作し続ける、そんな当たり前のことに気づいた。

いつもながらありがたい助言を頂いた。感謝しかない。「脛の傷」はつけたのではなく思い込み。フランス生まれの細い鉄の自転車は、今年もいくつかの旅の伴侶だった。これからも9000キロの彼方の東の国でしっかり旅の友となってくれるだろう。知識もなければ脚力もない乗り手だな、と呆れられないようにしなくてはいけない。

このライオン君、フランスから家財道具と共にコンテナに乗り、日本へやって来た。長旅だったろう。まだまだ走ってもらう。

Wレバー。フリクションで動かしているとレバーの緩みにも気づかなかった。随分と初歩的なところで引っ掛かっていた。情けない限り。

 

年末の挨拶

今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いします。

そう言って職員さんは一人また一人帰っていく。仕事をやり終えたという充足感を感じさせる顔であるし、実家に帰郷する明日からの休暇への期待も漂っている人もいる。

自分の今日の仕事も終えた。そして皆さんと同じような台詞を口にしてお辞儀をした。

年末の挨拶をしたのはひどく久しぶりに思えた。夏の終わりに35年勤めた会社を早期退職して、再就職は翌年の初めだった、しかしその新しい会社も予期せぬ病による長き入院治療。自己都合扱いで半年で退職した。

その翌年の初めから非常勤社員として地元の地域交流センターに採用して頂いた。フルタイムの仕事は体力気力とまともに持たないと週3回のパートタイムだった。そしてこの年末でちょうど12カ月が終わろうとしていた。一年を健康に過ごせたのだ。

誰にでもできる仕事。しかし地域社会のお役に立てること。また、些細な仕事でも社会のお役に立てている実感。小さなことでも、相手の事を考え「きちんとやること」にいつしか「喜び」があることが分かった。それは言い過ぎかもしれないが「生き甲斐」に近い感覚ではないか。そんな発見が自分の一年の成果だったかもしれない。

メーカーでのサラリーマンを生業としていた自分には社会貢献・地域交流は知らない世界だった。食事を提供する配食サークル、ご高齢者に楽しい半日を過ごしていただくデイケア、高齢者を相手にすると必ずしも幸せな気持ちにはなれない。物事に真摯に取り組むほどやり場のない気持になる事もある。子育てに悩む人たちの集いや高齢社会をいかに生きるかの勉強会など、前向きなこともある。

この職場で働く人々は、みな問題意識と責任感のある人たちだった。そんなアツイものが無いと務まる職場ではなかった。この職場で最初の2カ月ほど自分はデイケアの送迎をやった。自分がお出迎えした利用者さんが認知症が進む、高齢者施設に行かれる。あるいは物故される。辛い話だ。しかし100歳を超えたご利用者さんが自分の名札と顔を見て覚えてくださっていたのは嬉しかった。若干の障害のある子供とその親御さんたちで楽しむサークルでは自分はある時はニワトリになり、ある時はサンタクロースになった。真剣に椅子取りゲームをした。ご利用者さんの笑顔がそこにはあった。暖かいものが湧いてきた。職員さんは真摯に新しい遊びを考えた。

さまざまな事を知り感情の波が押し寄せた一年だった。思えば「お世話になりました。良いお年をお迎えください。」とは、三年ぶりに口にした台詞だった。振り返れば自分自身にもいろいろあったのだった。本当に、お世話になったのだ。

年月は日々の積み重ね。しかし12月末を区切りとして、仕事納めの日に皆さんにお礼を言いながら我が身をも振り返る。お世話になる物事がこれほど多いと改めて知る。我が身のステークホルダーは有形無形問わず広範囲だったのだ。三年ぶりの年末の挨拶は気持ちの良いものだった。

また来年も色々なものに向かって年末の挨拶をすることが出来るだろう。

 

 

オバサマ達のチームワーク 竹岡式ラーメン寿

竹岡式ラーメン。竹岡は内房線の竹岡駅。久里浜金谷フェリーの波止場のすぐ北にある漁師集落。チャーシューの煮汁を作り湯で割るだけのスープ。店によっては乾麺を使う。そんな形式をもって「竹岡式」と言うらしい。忙しい漁師の家のオバサマ達が漁師さんのために手短に作れるラーメンが発祥と聞いたことがある。これまで竹岡駅周辺の2軒。そしてより北側の富津市エリアで一軒、味わってきた。確かに漁師町のラーメンらしく、味は濃い目でしょっぱく美味しい。

もう家を出てしまった二人の娘たちがたまたまタイミングよく我が家に帰ってくるので、1泊2日で房総へ旅行に出た。小さな車に4人と1匹。10年以上前からそんなスタイルの旅行だったが、家族旅行は数年ぶりだった。漁協直営レストランで海鮮三昧。スイセンの花、棚田。楽しい旅の締めは竹岡ラーメンとした。予定した竹岡の町はずれの店は辺鄙な場所にあるにもかかわらず100メートル近い行列。これはダメだ。

自分もまだ錆びてはいない「つもり」ではあるが、さすがに若いだけあり我が娘たちのスマホ検索能力は素晴らしい。あっという間にアクアラインの近くに2軒、竹岡式を発見。1軒目は今日から年末で「看板」。2軒目はネットの評価も良い店だった。

ネットの評価だけをあてにはしたくない。ネットの情報ほど玉石混合はない、といつも思っている。かといって自分で発掘する事も不可能だろう。最終的に参考にせざるを得ないのは悔しい所でもある。しかしちょっとした共通項を見出した。ご当地ラーメンに関して言えば「小上がり」がある店はまず外れない。米沢、喜多方、白河、佐野、藤岡、八王子…。自分の好きなご当地ラーメンの店にはすべて「小上がり」があった。そして店内を仕切るオバサマはとても元気だ。あたまに巻かれた三角巾ときりっとしばった白いエプロンはチャーミングとも言えた。

一杯の器を一心不乱に無駄なく「流れるように」仕上げるご主人が店の動線の真ん中に居るラーメン屋には外れがないが、活気あるオバサマ達が注文を取りアルミのお盆に載せて小上がりにある机上に運ぶ店もまた、侮れないのだ。

厨房はちらりと垣間見る事しかできない。器を仕上げるワークフローは見慣れた店とは異なるようだ。小ぶりの五徳が6個から7個ならび、それぞれで一杯作るようだった。それらをほぼ一人のオバサマが面倒を見ている。「ああ千手観音の様だ。」唸ってしまった。

この店も同様だった。小上がりに案内された。座敷で食べることで、もしかして体内の「異なる」感受性スイッチでも入るのだろうか?「はい、どうぞ。」来た来た。見た目の色の濃さほどしょっぱくはない。細めで歯ごたえのあるメンマ、玉ねぎみじん切り、豚バラのチャーシュー。すべて美味しかった。オバサマ達のチームワークが最後の隠し味であることに疑いの余地はなかった。

会計時にコッソリ聞いてみた。「他の竹岡のお店と同様に乾麺ですか?」「うちは生麺ですよ」確かにこれが乾麺?と思っていたので納得がいった。竹岡式と言っても色々あるのだろう。

アクアラインを渡る用事はあっても袖ヶ浦で降りる用事はなかなかないな。 まぁ無理しなくとも、一期一会。悪くない。またいつか、立ち寄ればよいだろう。活気あふれるおばさまたちと素晴らしい一杯はいつもココにあるのだから。

チャーシュー、メンマ、玉ねぎみじん。バランス良く見た目ほど味も濃くなく。オバサマ達の元気が最高の隠し味となっている。