日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

感謝の〆

12月を一年の終わりとするならば、今日で無事に今年は終わった、と感じた。

入院していた病院のある街にはこのあたりではなかなか気の利いた商店街がある。自転車も多く行きかい大学の附属高校もある。活気があるのだ。今日は年末らしくいつにもまして人が多かった。

今年はこの街に何度通ったのか。経過観察は病院で紹介された近くのクリニックだった。そこで採血と結果確認。月2回だから24回というわけか。いや、半年ごとの病院での全身CT検査もあるからプラス2回か。毎度計測する可溶性インターロイキン2レセプターの値を見て「落ち着いています」と医師は今日も言ってくれた。

この値が高値を示せばリンパ腫が再び活発化したこととなる。毎月蟻の戸渡りを歩く気がするのだった。罹患からまもなく2年。治療終了からは1年半。大丈夫と自分を元気づけながらもすぐに弱気になってしまう日々だった。しかし死と生が常に隣り合わせの病院で日々を過ごすうちに、「何が起きてもそれが定めだろう」というある種の諦念も知った。

毎月が審判。「値は安定してます」という言葉で安堵して妻と歩く商店街は楽しかった。目新しいものがあるわけでもない100円ショップも、もう一匹飼う訳でもないペットショップも、揚げたてコロッケを置いた惣菜屋も、特売野菜を並べたスーパーも、良好な結果が出た後は全てが目新しく生き生きと映る。また小洒落たイタリアンやインド料理店、洋食屋や広東料理店、ベトナム料理店などもある。病院の帰りは、とにかくひと月を無事に過ごせたという安堵と感謝でそれらの店で昼食だった。

商店街の駅の近くに、長く通っているラーメン店がある。娘たちが生まれる前から時折食べに来ていたがその娘も結婚したほどで、その時の長さを感ずる。当然商店街の店は変わったしラーメン店もまた世代交代で若親父が継いでいた。味は受け継がれていた。

長い時間とともにいつか若親父と顔なじみとなった。今月のクリニックでの審判もポジティブだった。ならば年の最後にと、くだんのラーメン店におのずと足は向かう。

この一年の社会の激変を受けてか店もまた値上がりしていた。しかし単に値上げするのでもなくそれなりの親父さんの気概を感じた。麺も小麦粉の配合を変えて新しくした事も書かれていた。寸胴のスープに高価そうな利尻昆布が一束投入された。いかにも良い出汁が出そうだった。常に前進だ。

親父さんの炒めるモヤシは逸品だろう。強い火力、中華鍋の上でモヤシは舞う。シンプルに行きたい支那そばも、この店だけはモヤシトッピングは欠かせない。

今年一年、何度このラーメンを幸せに食べたのだろう。思えばガン病棟から退院して初めて食べたラーメンも病院からほど近いこの店だった。それを食べる事が楽しみだった。久しぶりの一杯は無事にこちら側の世界に戻ってきたというお祝いの味に感じた。

毎月の検査を終え時折立ち寄るこの店のラーメンは、自分が無事に日々を過ごしている証だ。「今年はこれで食べ納めだね、感謝をしよう」、そう食べながら妻と話した。

食べ終わってから以前もそうしたように、商店街の和菓子屋でお団子を買いご主人に渡した。自分たちにできる感謝とは、残さずに食べる事とこのくらいの事しかない。丼を温めるためだけのグラグラ揺れる寸胴鍋からラーメン丼を引き上げている親父さんは、まさにヤマ場だった。

「すみませんねぇ、そんなのイイよ!…」
「いやいや、こちらこそ、今年一年ご馳走様でした」

声を掛けて邪魔にならぬようにと逃げるように店を出た。何故だろう、これで今年は無事で終わったような気がした。治療の経過観察は来年も再来年もその先も続く。データに安堵し続けたいが毎月が正念場であることには変わりがない。

「良好な診断結果後の一杯の支那そば」。一つこれを引き続き次の一里塚にしよう。今年の「感謝の〆」はこれだった。これからも〆の山を築くつもりだ。

これ迄に一体何杯食べたのか。夫婦だけの時代。子供たちを連れたころ。彼らが巣立ち再び二人になった時。病から復帰した時。経過観察の日々…。これからも大切な一里塚だろう。

駅そばシリーズ(13)三島駅・桃中軒

桃中軒はシリーズ(9)で書いたがそれは沼津駅だった。今回はお隣三島駅。三島には転勤で、新幹線通勤だった時期もある。在来線ホームにあるこの店は食べた記憶が薄い。今回は友人夫妻たちとのゴルフで三島に来た。会社を辞めた自分には暇だけは沢山ある。三島なら在来線で十分来れる。

熱海行東海道線に揺られながら、いや、乗る前から朝食はコレだな、と決めていた。カートに乗って行き来するゴルフでも自分のような下手くそは球がそこらじゅうに散るのでクロスカントリー競技のようだ。シャリバテになってしまったらスコアは更に落ちるだろう。三島駅についてわざわざホームを替えてこの店に至った。

店はオバサマ一人でのオペレーション。前から気になっていた「コロッケ蕎麦」をとうとう頼んだ。いわれは不明なるも三島はご当地グルメとしてコロッケを売りにしている。「三島コロッケ」とは売店にも売られている。実際三島に住む友人から時折戴く自家製ジャガイモは確かに美味しい。コロッケが美味しいのもわかる。

コロッケ蕎麦は立ち食いそば店ではメジャーなメニューだろう。しかし粉っぽそうで自分の中では「イロモノ」だった。それにかき揚げの魔力には勝てなかった。しかしここは三島だ。今こそトライだろう。

厨房のオバサマと世間話をしながら頂いたコロッケ蕎麦は、「美味かった!」コロッケが最後までカタマリの実態感を失うことなく、しかし汁に馴染んだ。やや斜めにカットされたナルトが乗っているのは沼津の桃中軒と同じで好ましい。何故これまで口にしなかったのか、悔やまれた。オバサマと話すことで味は更に増した。立って食べる慌ただしさで味は更にブーストする。立ち食いソバの魔力だ。

さて、コロッケ蕎麦の成果はあったのだろうか? 残念ながら例によって球は散りまくった。チョロる、ダフる、スライスする、フックする。すべてのワザは出まくった。まぁ、パワフルな朝食で力がつきすぎて出力過剰だったのだ、そう解釈しておこう。

三島コロッケが鎮座する。湯気を上げる汁にも彼は負けることなく最後まで実態を維持した。ナルトも喜ばしい。何故これまで疎遠だったのだろう。これから食べればよいわけだ。

 

おそるべし千葉

仕事で頻繁に欧州・米州・中国と日本の間を行き来していた時代。2015年あたりまでだろうか。帰国便の成田へのアプローチは多くが九十九里海岸辺りから空港へ降下する。太平洋便ばかりでなく欧州便は阿武隈の山々を越えていったん太平洋上に出て旋回した。滑走路が混んでいるときは太平洋上で旋回待機。西日が機内に射し込んだと思へばそれは直ぐにサーチライトの様に機内をぐるりと半周して消える。そしてまた射し込む。いつかそれが止まるのではないか、旋回待機はあまり良い気はしない。

ランウェイに向け降下が始まる。窓際の席に居たならアクリル越しの小さな風景に釘付けだった。利根川霞ケ浦を確認する。地図通りのカタチだ。そしていつも驚いた。「千葉は本当にゴルフ場ばかりだな」。眼下にも視線の先にもゴルフ場が幾つも目に入る。

自分と千葉とのつながりは薄かった。機上から見るゴルフ場と、成田エクスプレスから見る車窓、それが千葉だった。

海外を飛び回る仕事から離れてからは、千葉に通う事が多くなった。と言っても市街地ではなく房総だ。サイクリングに、又、温かいから山仲間との忘年山行の舞台を千葉に求める事も多かった。その頃に始めたゴルフでも通った。山と言っても最高峰の愛宕山ですら海抜408メートルに過ぎない。多くは200から300メートル級の山で、冬でも暖かい日差しの中をゆっくりと歩くのに向いているエリアだった。

千葉の山里はなかなか楽しかった。歩く季節が冬という事もあるだろう。スイセンの花が見事で、里山には甘い香りが漂う。少し時期を外せば菜の花も多い。棚田が広がりそこを老いた夫婦が野良作業をしている。桜の古木も多く、その季節に行ったことはないが、満開の季節から葉桜になる風景を想像すると気が遠くなりそうだ。柔らかい風に桜の花びらが舞うのだろう。写真家ならその一瞬と山里に射し込む柔和な日差しを捉えようと、三脚の前を離れる事は出来ないだろう。

クルマをわずかに走らせればそこは海。漁港周辺にはその日に揚がった地魚を出す店が軒を並べる。どれもが逸品、鮮度が違う。

サイクリングを考えても、ほぼフラットな海岸線を走ることも出来るし、小さな山道も楽しめる。電化されていない単線のレールを気動車がゆっくりと走っていく。それを追うのも又楽しい。何を楽しむか、どう楽しみたいか、そのすべての選択肢にこたえてくれる。

この地に期待してはいけないのは中級山岳といで湯か。その代りに里の香りが濃厚な山が待っている。草津伊香保、鬼怒川のような温泉地はなくとも、平和な山里の中に忘れ去られたような湯がある。登山の汗を流すには十分すぎる。

そして西日の差す時間帯に太陽を見るならば、その下に驚くほど鮮明に富士山が立っているのを見るだろう。左右にゆったりと裾野を伸ばした姿はコニーデ火山の教科書とも言える。「悠揚迫らず」という日本語はこの風景を表すのか、と実感する。

「お母さん、このイカはどう食べると美味しいの?」
「フライパンが一番。網は焦げるからね。上に載せて両面に熱通して。生姜醤油がいいよ」
「美味しそう!ではこれイッパイ。これは日本酒進むね。罪だな」

日焼けしたお母さんはドライアイスを入れて包んでくれた。山仲間との今年の千葉の山の忘年山行の締めくくりはやはり海鮮料理と土産だった。車の中は山麓無人販売所で買った「スイセン」の高雅な香りで満たされていた。

ドラえもんの「どこでもドア」があるならば、それも数枚あるならば、自分はその扉とどの地をつなげたいだろうか。一枚は生まれ故郷の香川に決まっている。しかし一枚は千葉・房総かもしれない。そこは自分の興味を満たすモノがまとまってある。山と里、里と海。すべてが近い。

帰宅してさっそく焼いたイカに冷酒も進んだ。「千葉はまったくおそるべし」。今度は家内とスイセンの山里を歩こうと思う。まだ盛りは数か月ある。桜の時期と重なると、そこは夢幻境に違いない。

山の終わりは海鮮。イカを買って帰宅の途へ。山と里、里と海。すべてが近い。

千葉・南房総スイセンの有名な産地。スイセンロードと呼ばれる道はこの時期柔らかい匂いに包まれる。

 

初・ダート!ジムニー

納車されてひと月も経たない。さっそくダートを走ってきた。前の形式の様な電子式切替ボダンではなくなり、シフトレバーの後ろに専用切替レバーがある。ゴツゴツとした手ごたえの中それを後ろにガッと引くとダッシュボードに四駆のマークが浮かび上がる。4つのタイヤががっちりと大地を捉えた感じが体感できる。これが好きだ。

ルートは手短な神奈川県の林道として、ヤビツ峠から宮ケ瀬に抜ける道とした。大きな水たまりで盛大に泥をはね上げた。力強い16インチの四駆はぬかるみがちな悪路をものともせずに前進する。3500回転を超えるとターボが効き始めて、走りは別次元となる。カウンターを当てながら、ゴトゴトと飛び跳ねながら羊腸の下りを進む。楽しい。さすがジムニー

新車はなかなか汚したくないもの。しかし雨風の中も走るのだから汚れは避けられない。いっそ早く汚したほうが肩の荷は下りる。このクルマの様に、汚れると「光る」クルマもあるだろう。ピカピカよりも泥汚れが似合う車が好きだ。ただし、帰宅するとすぐに流してワックス掛ける。いったいピカピカとマディ―、どちらが好きなのだろう。

中津川渓谷まで降りて、愛川町だ。初ダートはおわり。ふうっと外に出ると、ミリタリービークル色をした我が愛車もすっかり泥の洗礼で、彼一番の晴れ姿となった。

・・・あれ、待てよ。ヤビツの林道? 何を言っているんだか。とうに舗装路になったではないか。1980年代にオフロードバイク・赤のホンダXL200Rで走った、あの林道ツーリングが最後のダートのヤビツ峠だった。あ、そうか、空想のツーリングだったな。

* *

自分のモデラ―歴は長いようで短い。実際には小学生の頃に一番作っただろう。そして大学生でカムバック。結婚してからは長い冬眠へ。当時はタミヤの1/35、そしてハセガワの1/72。これだけで戦車・ミリタリービークル、そしてプロペラ機ですね、と、知る人には説明が不要だ。

ジムニーを発注してからの1年のリードタイムが待ちきれずに1/32スケールのジムニーのプラモデルをポチってしまった。アオシマの楽プラシリーズだ。最近友人がジムニーを発注したという。その友人と自分はともに一つ前のジムニー(JB23型)を所有していたが、今度は期せずしてともに現行型(JB64型)のオーナーとなるわけだ。パールホワイトのジムニーを発注した友人は、これまた自分と同様に白の楽プラをポチられたようだ。自分の思考回路が年上の友人に余りに近いので思わず笑ってしまった。

手先がとても器用な友人は、さっそくウェザリングを施した彼の一年後の愛車の姿を送ってきた。上手い!自転車やレースカーのスケールモデラ―だっただけはある。

メラメラと、錆びたモデラ―にもやる気が湧き「汚し」たくなった。1/35ミリタリーミニチュアシリーズに凝っていた頃は、もっぱら「汚し」はフラットアースなどの色をかすれるようにモデルにこすりつけていた。それが当時の自分の知る唯一のウェザリング手法だった。今は様々な手法があるようだ。友人はまた異なるやり方で汚れを表現していると言われた。パクトラタミヤを溶剤で溶かしてモデルの彫り線にそって流したりと、流石の手法を教えてくださった。自分は今回は模型店にてタミヤウェザリング用の固形パウダーを仕入れた。茶色・こげ茶・赤さび色の三色が塗り棒と共にセットされている。そう、娘の部屋にいつも置いてあったアイシャドウのセットのようだ。

色々トライしたが、下記の手法が今回は効果的に思えた。

・タイヤなどの汚れは茶色パウダーをアイシャドウ棒でこすりつける。すると泥が粘ってはりついた感じがするように思える。
・茶色パウダーを紙やすりで粉末にする。それを小さな筆につけて、筆を爪でポンポンとはじき、粉を飛ばす。すると車体に飛び散った泥が乾燥したという粒状感があるように思える。はじき方も爪ではじくかはたくかで塗料粉の飛び方も異なる。

友人から口頭で教わった手法は、今度実地で見させてもらいたいと思う。

さて、再開の狼煙はあがった。未着手のキットは20年以上も前からなんとなく買っておいた。5,6箱はある。多くは1/72スケール。つまり飛行機だ。日本帝国陸海軍の戦闘機2機種、そしてRAF(英国空軍)の誇る大好きな木製戦闘爆撃機・モスキート。そして地獄の黙示録を見てから大ファンになってしまったヘリコプター。なぜかOH-6のキットがある。本当はUH-1を揃えたいところだ。そしてこれまた家内がずいぶん昔に「好きでしょ、これ」と勝手に買ってきたF4Fファントム。(ファントムは決して好きな機体ではないが、そうも言えなかった)後者三点はベトナム戦争編だ。全部作れるのだろうか?頭の中でスイッチングリレーがカチカチ切り替わり1940年代と1970年代初頭を往ったり来たるするわけだ。整流ダイオードを定石どおりに脳の回路の中にきちんと入れないとサージで脳が壊れそうだ。

今朝の半日、ジムニーウェザリングを施しているときは、まこと、時の経過を忘れた。ああ、時間が欲しい。ジムニー実車は当面ダートデビューはしないだろう。まずは床の間にでも置いておきたい。

モデラ―復帰第一作は我が愛車ジムニーJB64型。今日は丹沢・ヤビツ峠越えだった。いや、あの道はとうの昔に舗装されていたな。空想の林道ツーリングもまた楽し。

友人のジムニーJB64型も一足早く、ダート走行した様子。信州峠でも超えたのだろうか、いや、あそこも全舗装だった。




冬の味 ‐ カブ・柚子胡椒・アボガドのパスタ

カブをどさりと大きな袋で頂いた。友人には家庭菜園を営む人も多い。鍋にしたり煮物にしたりと考える。一方妻は喜んでぬか漬けにしている。色々な料理で冬の味覚を満喫する。そして残ったカブ。パスタにしようと考えた。

冷蔵庫を見て使える具材で対応だ。様々な野菜の切れ端。そしてカブ以外には挽肉が少し残っている。数日前にパスタにしようと買っておいたアボガドが、そろそろ賞味期限を迎えそうだ。これはトマトジュースやシーフードミックスとあえて冷製パスタにしようと思ったのだった。しかし自分は旬に弱い。カブ様を最初に片づけたい。アリオリオ・ペペロンチーノ風にして、そこに柚子胡椒を使うとどうだろう? そこにアボガド、載せてみるか。自分と家内しか食べないのだから想像料理、創造料理、失敗作。すべてアリだろう。

●具材 (二人前):
・カブ一個(ざく切り)
・玉ねぎ1/2個(ざく切り)
・肉団子(豚ひき肉100グラム程度を微塵玉ねぎとともにこねて親指大の団子にした。片栗粉を絡める)
・アボガド一個(1センチ程度の角切り)
・アリオリオペペロンチーノ(唐辛子、オリーブオイル、ニンニク(チューブで代用))
・調味料として白ワイン、柚子胡椒(チューブ)、塩コショウ 適宜
・パスタ ショートパスタがこのソースには似合うのではないか、とひらめいた。フジッリ200グラム。

●調理 :
・肉団子は予めフライパンである程度火を通しておく。その肉汁を利用してアリオリオペペロンチーノ。そこに具材を炒める。
・柚子胡椒で味を調える。意外と絡みもあるしパンチがあるので少量ずつ好みになるまで加える。
・茹で上がったパスタと絡める。
・アボガド角切りはトッピング

さて、いつもの味音痴夫婦の採点。いつもどおり★五つ。もっともなんでも五つだが。ショートパスタはソースが絡んで正解。パスタの茹で汁をもう少し多めにソースに使えばよかった。アボガドを載せるので水分を減らそうとしたのが裏目か。ソースの乳化不足だった。

アボガドが意外に柚子胡椒に良い組み合わせだった。米国に移民した日系人は戦時中の抑留キャンプで、アボガドを食べて涙したと聞いたことがある。マグロに似ていると。 確かにカリフォルニアロールを食べて違和感ないどころかマグロっぽさを感じるのだからアボガドもなかなかおそるべし。

カブそしてアボガド、立役者の柚子胡椒。季節を楽しむ料理は新しい世界が広がるようだ。所詮味音痴夫婦の楽しむ料理だが、それで食卓の会話が進んだのだから料理の本来の役割の一つは果たせたのではないか。

どの具材も良い役割をしてくれた。想像の創造料理。色々なバリエーションが感がられる。

 

正体は何なのか?

師も走るというほど慌ただしい季節。冬至もやってくる。一年で一番日が短いことも手伝ってかあっという間に一日が終わってしまう。ボーっとしていると気づけば日めくりは一枚破られる。

テレビをつければ「本年のニュース振り返り。今年物故された著名人」などという総括的な番組が増える。商店街はアーケードの隙間から冷たい風が吹き込み「大売り出し」の幕は風に揺れる。スーパーに入れば、クリスマスの飾りつけと思えば金色の包装紙に飾られた商品。お正月用品だ。

赤と緑、そして金色に飾られる商店では店内放送もなにか気ぜわしい。店を出て少しでも歩けばすっかり暗くなった通りにチカチカと電飾を施している家庭も多い。

クリスマスから年末へ向けて、日本中はすべてが気ぜわしくなってくる。普段は暢気な家内ですらこの時期には目が三角になり大掃除を促す。おいおい、何か特別なことがあるのか?そう言いたくなる。

日本の年末の風景は慌ただしい。別に12月末で地球が自転を止めるわけでもない。年月は連続した毎日の積み重ねに過ぎず、始点も終点もなく進んでいくだけだ。その中の一点にヤマ場をもってくるかのような盛り上がり方。皆が急くから社会もそうなるのか、社会が急くから皆がそうなるのか。

12月はなぜこうも慌ただしいのか、せわしさのその正体がずっとわからない。

ただわかっていることは、自分はその季節が何となく好きという事だ。街の慌ただしさに身を置くと、何故だろう。昔から期待感で浮き浮きするのだった。スーパーの店内は、皆さんそれほどまでに鳥肉が好きなのですか?とでも言わんばかりにチキンが並ぶ。世の鶏達にとってはまったく災難な日だろう。売れ残りケーキが安く売られだすとおおずめだ。お正月用品中心で廉価なかまぼこも何処かへ消えてしまい高級かまぼこばかりが冷蔵ケースに並ぶ。軽く5、6倍は値段が違う。それでも、店内を歩くのは愉しい。心が軽くなりステップでも踏みたくなってしまう。そしてテレビで流れてくる上野は「アメ横」の風景を見ると自分達も何か忘れモノをしていないか、という気すらしてくる。こうしていられない、と浮き浮き気分は焦りに変わる。…そして同時に寂しさも感じる。祭りの後に感じる寂しさ。ああ、一年終わるよね、という気持ちなのか。期待と寂寥感は同居しあえる感情なのだろうか。一つの現象の表裏をなす想いなのだろうか。

敢えて考えるとしたら、期待や嬉しさは年末のイベントか。この季節、会社員時代には賞与が出てわずかながらでも懐が温まった。加えて家族は一まとまりとなり、なぜかこれまた普段食べない料理を食べる。多少なりとも胸が踊るわけだ。すると寂しさは何だろう。子供の頃は歳を経る事は嬉しい事だった。しかし加齢に対して今はため息は出ても胸は踊らない。だんだんと老境に近づくことが見えてきた、自分の伸びしろが無くなってきたことを自覚するからだろうか。

あまり深い事を考えないほうが良いのかもしれない。一年で一番日が短くなる時期に、一番寒くなるだろう時期に、多少寂しさはあってもワクワクする気持ちを持ち続けられるのであればそれは素晴らしい事ではないだろうか。

期待と寂しさの同居する12月のせわしさとは。日々の連続にすぎない時の流れで、少しアクセントをつけて振り返ってみませんか?そして思ったことがあれば明日から生かしませんか? そんな粋な計らいなのかもしれない。誰が仕組んでくれたのかわからない。

来年になれば、再来年になれば、いつかの日か、なにかわかるのだろうか。

商店街には寒い風が流れ込む。スーパーの売り出しの声が風に漂い、押されるように厚着した人がせかせか行きかう。年末の慌ただしさは、何なのだろう。

 

真摯なる職人さん

気がついた。自分は「職人さん」と呼ばれる人に弱いということに。職人と言ってもなにも伝統工芸の担い手ばかりではなく、見渡せば多く職人さんは身の回りにいる。

自転車屋さん。パンク修理は序の口で、スポーク調整・ホイールのブレ取り、ディレイラー調整、きりのない程のワザのデパート。
・タイヤ交換の整備士さん。タイヤを手際よく外して一気に締める。トルクレンチでカチカチ確実に仕上げる。
・駅ホームの立ち食いそばのおばさま。注文を受けて30秒で熱々の丼を出す。その丁寧さと素早さを両立した熟練さ
・新入社員研修の現場で見た熟練のスポット溶接工。流れてくる板金を手に取り、寸分たがわぬ場所にスポット溶接機を当てる。形を変えた板金は命を吹き込まれ、白く輝く。

自分の祖父は瀬戸内海に面した小さな町で自転車屋を営んでいた。子供の頃祖父の店に来る自転車を修理する真っ黒な祖父の指先を見るのが大好きだった。自分のやっている作業の意味を、何故ここで油を指すのかを、丁寧に教えてくれた。

その影響があるのだろうか。職人さんの熟練の手腕は見ていて全く飽きない。共通していることは「流れる」。作業に一切の無駄がなく、当たり前にようにこなされる。そして業種や分野を問わず職人さんたちは作業を念入りにする。全く手を抜かない。やるべき仕事が「10」あるのであれば、確実に間違えなく「10」こなす。それが簡単そうで実は容易でないことは、自分がそう手際よく長い期間に及んでやれるかと言われれば答えはおのずと出てしまう。しかし職人さんたちはしっかり作業をすることが定めであるかのように正直に仕事をする。和食料理店のまな板も包丁も白布で拭かれ常に美しい。あれを常に維持することは出来そうで出来ない。

誰のためにここまで念入りにやるのだろう。お客様に喜んで頂く為か。しかし最初はそんな気持ちで始まってもどこかの段階で目的は変わっているのではないだろうか。職人さんたちは何処かで、自分のやる行為の中に喜びを発見し、それを楽しみ、真摯にこなすことに何らかの自分の存在意義を見ているのではないか。だからこそ、その作業の手順は毎日確実にこなされて、ぶれる事もないのではないか。

今日のラーメン店の主も、またその意味で自分の目には職人すぎる職人だった。茹で鍋の湯を替える。麺を茹でるまで蓋をしてそれを外して湯のぐらつきを見計らう。しかし少し水を足す。自分から見ればそれにどのくらいの効果があるのか?と言いたい程度にガス栓を微調整し、寸胴鍋の様子を見る。麺の粉は三回払うのか。何故三回なのだろう。そこに行きつくのも何らかの試行錯誤があったのだろう。

今頃気づくのも遅い。自分はラーメンが好きで色々な店に行くが、目的はラーメンではないという事に。職人さんが作るラーメンが美味しいのは当たり前だった。自分の興味は職人さんの所作、そして職人さんがどれほど一杯の丼を作るのに心血を注いでいるかの強い表情。だから、バックヤードの厨房で作られてお盆に乗って出てきたものはその時点で興味の大半が消えてしまうのだった。一杯の美味しいラーメンは結果であり、自分は結果を生み出す過程に魅かれる。没入している人は美しい。自分も何かにおいてそうありたい。

「ごちそうさま。今年一年、美味しいラーメンありがとうございました」

そうお客さんは声をかけて店を出て行った。ご主人はそれ以上の歓びは無いという笑みを返したが、直ぐに厳しい顔になり寸胴鍋に向かった。こちらもご主人の渾身の一杯をありがたく頂戴する。

こちらも年の終わりに無言の「アツイもの」を見させていただいた。来年も良い年であるに違いない。

手抜きせずに真摯に仕事をしているご主人が作るラーメンならば、美味しいに決まっている。ラーメンは二の次で、やはりその没入している姿に魅かれる。