日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

高原への道

等高線で見ると緩やかに見える。下見でも車で何度か走ってみた。コースの半分は森の中で日差しも遮られるだろう、そう思った。

会社時代の先輩お二人が泊りがけで遊びに来てくださった。入社した部門の先輩と他の部門の先輩。ともに海外営業のお二人だった。先輩からは多くの仕事ぶりやビジネス英語を教えてもらった。しかし、むしろ仕事よりもアウトドアの遊びをともにしていた。マウンテンバイクで野山を走り河原にテントを張った。その後誰もが違う道をたどり音信も途切れたが、何故だろうまたこうして会うようになった。SNSで互いの生息を確認するのは難しくなかった。再びサイクリングを共にしてゴルフクラブを手にしてグリーンの上に立った。

今回のお二人はサイクリングのご所望だった。彼らは健脚で自分は貧脚だった。自分でも走れそうなルートをあらかじめ地図で確認し大まかに車で走った。

約25キロで単純標高差450メートル登る。約2%の勾配となる。普通のサイクリストなら苦にしないだろう。僕はできるだけ標高差をおさえるべく自分の住む街から信州に向けて北上する高原列車のルートにできる限り沿うルートを検討した。

鍵はある駅と駅の間での急な沢の横断だった。鉄道はその沢を少し高巻いてトンネルで小尾根をかわし高原台地に登りつく。自分が考えたルートはその五十メートル程度の下にある谷に忠実にトラバースする小さな道だった。距離は長いが標高差の無駄は少ない。バイパスの国道を選ぶならば約百メートル下がってから登り返すことになる。谷を渡る際は高度感抜群の橋を越える。足がすくむのだった。

予定通りの頼りない小径に進めた。しかしすぐに通行止めの標識と車止めがあった。警備員さんがいらした。土砂崩れで重機で修復中と言われた。

ここで考えた。この先百メートル降りて登り返したくない。しばらく前にチェーンを脱落させてからその日の自転車は調子が悪く頻繁にギアが落ちた。ギアの歯飛びか変速機の不調か分からなかった。本番の前に一度じっくり走り確認すべきだった。それもあったがすでに疲れていた。ここで辞めれば楽できると思った。しかし遠路はるばるお越しいただいたお二人にそれを言うのは躊躇われた。

よし、やるか。一気に百メートル降りてギアをローローにした。千尋の谷を行く橋を越えてからは高原台地まで果てのない登りだった。お二人は視界からとうに消えてしまった。

登りついて汗を拭っていたお二人が待っていた。そこからも目的地の高原の駅までは果てしなく長かった。もう十年以上も前に一度山の友とサイクリングしたルートだったが、明らかな体の衰えを感じた。加齢、闘病、薬の副作用。言い訳はいくつも湧いたが何の意味もない。今僕はそんな自分自身と向き合い受け入れなくてはいけない。

県境を越えるとそこは八ヶ岳が作り出した広闊な高原だった。高原レタスの産地でもあり乳業も盛んだ。そしてそこは旧国鉄の標高最高地点の駅がある。その奥には電波望遠鏡が見える。空気に夾雑物のないこの地は天体観測にも向いている。辺ぐるりと寂しいほどに、広かった。この地が好きで僕は若い頃から何度も来た。懐かしい風景だった。

しかし多くの場合ここは霧に覆われていた。海抜千三百メートルの高原とはそんなものだろう。やはり今日もその駅につく頃にやはり空は暗くなり霧雨に包まれた。旅の終わりのサインだった。

ランドナー輪行袋に収めた。次の列車まで一時間半待たなくてはいけない。年上のお二人のあの健脚ぶりは素晴らしい。自分は何とも情けない。お二人は楽しまれたのか、僕は足手まといではなかったのか。

のどかな駅で列車を待った。輪行袋を抱えて三人は二両編成の気動車に乗り込んだ。苦労した道を戻ることになる。時にディーゼルエンジンは唸り車体が振動する。惰性で下り鹿よけの警笛を鳴らす。

帰宅したらメンテナンスだな、自転車と自分自身の。百八十度のカーブを経てわが町の駅に着いた。

約二十五キロ走行、海抜九百メートルから千三百五十メートルへ、高原から更なる高原へ。細かいアップダウン、想定外の大下りと登り。累計してどのくらい稼いだのだろう。