日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

洗礼

洗礼とはキリスト者として生きることを決め信者となるための儀式を受けることを指す。転じてそれはあることについての経験を持つ事をも指すだろう。

カトリックの洗礼を受けた友がいる。なにか拠り所があるのだろう、彼女はしっかりとご自分を持っているように思う。教会で祈る彼女には近寄りがたい。自分など何の拠り所などないのだった。

新しい高原の土地に引っ越してから、自分はどうも体調がすぐれない。直ぐにだるくなり何事も長続きがしない。引越し前の作業から引越し後の解梱や、インフラづくりと心も体も疲れているのだろうか。加えて思ったよりも海抜九百メートルの地は冷える。環境への順応が必要だった。

三十代からずっとヨーロッパにせよアメリカにせよ月に一回は出張していた。時差による不調は感じてもそれは所詮数日だった。すぐに日本に帰国するただのトラベラーなのだ。しかし住むとなると勝手が異なる。自分も家族も含め、駐在員誰もが北緯五十度の街で赴任後ひと月で原因不明の発熱を見た。「駐在員熱」だね、と駐在者の先輩は言われる。実際それはその地への気候や生活への順応の中で疲れ果てて免疫が落ちて発熱したのだろう。

それは一種の通過儀礼で過ぎてしまえばその後は何ごともなくなる。日本人ドクターの病院で見てもらいタイレノールあたりでも処方される。それだけだった。

中国に初めて行くと行くとこれまた強烈な通過儀礼が待っていた。発熱ではない。下痢だった。これもまた「中国熱」として出張者の間では誰もが味わっていた。衛生面、特に生水あるいは氷。加えて辛い料理。仕方ないのだった。これを経なければ中国との仕事はできなかった。「駐在員熱」も「中国熱」も過ぎてしまえば何事もないのだった。

どうやらこの体調不良は「引っ越し熱」だろうと思う。海抜五十メートルから九百メートルまでひとっ飛びだ、標高差八百五十メートル。百メートル当たり気温は0.6度下がる。五度は気温が低いのだ。当たり前だろう。

今までの例を見るまでもなくこれは一時的なものだろう。僕は気にするのをやめた。自分は無神論者のままだが洗礼は終わったのだ。イエス様もマリア様も助けてはくれないだろうが八百万の神がついている。全てはこれから上手く回るのだろう。