清里に始めてきたのは何時だろう。1985年頃だっただろうか。オートバイのツーリングだった。そこは八が岳山麓の海抜1200mあたりの高原で、長閑なローカル線の駅があった。その記憶は薄いがその数年後、なぜそこが脚光を浴びたのだろうか、広くない駅前通りには多くの土産物屋や芸能人の店、奇抜な建物などが軒を並べていた。アンアン・ノンノンには特集が組まれ若い女子に人気のある街だった。女子がいるなら当然男子も来る。高原の街はそんな男女に溢れていた。家族経営のペンションが多くあった。
そんな頃に当時の彼女と泊ったことがある。寒かったので冬だったのだろう。スキーをしに行ったのだろうか、よく覚えていない。ペンションのお母さんは笑顔を絶やさぬ気の良い方で、ご主人の料理の腕も良かった。宿の名前も覚えている。
その後清里は何度行っただろうか。友人とバイクツーリングで、サイクリングで、登山で、何度か通過した。そこが目的地になることも無かった。ただ二、三回駅前通りに行ったことがある。バブルが崩壊して清里の繁栄は同時に無くなってしまった。残ったのは当時の建物の廃墟だけだった。廃墟巡りのシーンになるほど荒廃していた。店の看板は朽ち果て硝子は割れて、奇抜なデザインの建物は却って醜悪だった。芸能人の店もとうに撤退していた。空虚を通り越して不気味でもあった。清い里、とは良い名前なのに寂しい話だった。
結婚した娘が週末に家族で遊びに来るという。僕たちはどこか下見でもするか、と清里を選んだ。自宅から車で一時間もかからない。駅前の崩壊とは別に山裾にある牧場には昭和初期にそこを開拓した米国人が作ったキリスト教施設、清泉寮がある。あたりは広大な牧場で、清泉寮のアイスクリームは名物だった。高原のレストランも美味しい料理だった。あの時は冬でここまで来れなかったかもしれない。新緑のすがすがしい風景を前に、娘夫婦をここに案内しようか、と妻と話した。
帰路、ふと思い立ち当時泊ったペンションをネットで探した。まだ経営されているようだった。森の中にそこはあった。何の記憶も残っていなかった。玄関を開けたが誰もいない。すぐ下の広場に草刈りの音がした。自分と大して変わらぬ年恰好の野良着の男性が登ってきた。
中に入った。「何となく覚えている」と妻は言う。果たしてそこはやはり自分達が泊った宿だった。素敵なママがいらっしゃいましたね、と話すと彼は奥から写真を出してきた。それを見てすべて思い出した。お母さんは、気さくに泊り人に話しかけていた。自分達は少し緊張していたのかもしれない。結婚を数か月後に控えた旅行だった。身振り手振りを交えてお話しされたお母さんだった。予約を取った時の応対、少ししわがれた声まで思い出した。写真はペンションの食堂で撮られた家族写真だった。庭仕事をしていた彼のお母さまだった。
彼は不意の来客の為にコーヒを入れてくれた。思い出話をしてくれた。あの頃清里には不思議な活気があった。急にそれが来て建物は増築する、テニスコートを作る、と大変だったと言われた。当時高校生の彼も駆り出されていたそうだ。しかしバブルがはじけて熱が冷めたかのように元に戻った。後には負の遺産が残った、そんな風に言われた。しかしすがすがしそうだった。
あれは今思えば異常だったのです。雑誌に取り上げられて。いま駅前は一度崩壊しましたが少しづつ、静かに戻ってきましたよ。本来の清里に。廃墟も時間をかけて元に戻ったのです、と。
帰路駅前を通った。醜悪な建物は消え、静かな通りだった。いま・むかし、か。時は流れたのだ。娘夫婦が来たならこの地について何を話せばよいのだろう。心の中には僅かな寂寥と、ほんのりとした温かさと、安堵と、何故だろう、疲れもあった。何も話す必要もないだろう。