日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

賽の河原の石積み

雪が降るという予報に朝早くに家内を駅に送っていくこととした。自宅に戻る途中、ふとハンバーガショップに立ち寄った。滅多に行かないが、朝は安いメニューもありまたなかなか美味しいコーヒーがある。自宅で食べても味気ない。国道沿いの店だが、店内は思ったよりも人が居た。子連れのお母さん達が来るにはまだ早い時間帯なのだろう、代わりにいたのは自分より10歳は年上だろう銀髪の夫婦と、若い女性だった。

シルバー夫婦はタブレットをそれぞれ読みながら、何かをノートに書きつけていた。お父さんのタブレットの画面には「血は神にとってはどういうものか」と題されたページが表示されていた。そして彼は豆粒のような字をノートに綴っていく。反対となりの女性は詩集を開いていた。「傷つくまで人を愛したことはあるか」と大きな字がページの中に一行書かれ、そこに彼女は青いラインマーカーをひいていた。

シルバーエイジになっても哲学的な文章の中に道を探しているのだろうか。まだ悩むことがあるのだろうか。彼女は身を焦がす意中の人を想っているのか。いやしかしその左手薬指には指輪が光っている。何かを表現したく、ふさわしい言葉や風景を探しているのかもしれない。ページを繰っては戻り窓の外を眺める姿から、そう思った。

おじさんは「訳がわからない」と奥さんに呟いて椅子に背中をつけた。なかなか難しい課題のようだ。彼女のページもあまり進まないようだった。想像の翼をはためかせ創造するのは容易ではないようだ。

自分はといえば、そんな人々をぼんやり見つめ、考えるのだった。年齢性別に関わらず何かを探し考えることは大切だと。自分もなにか分からぬが焦っている。生死を彷徨う病の縁で思った。「悪く思えば時間は限られているのかもしれない。有形でも無形でも良い、何かを創りたい」と。しかしそれも曖昧として空回りしている。戸外に出て野山を歩けば答えは見つかるか。いや目下のところ成果なしだ。

少し経って子連れのお母さんがやってきた。たちまち明るい笑い声が店内に響き渡る。無邪気は素晴らしい。邪気に満ちた自分を超えた自由さがある。そんな店内の壁を見ていたら、内装の一部だろう、手書きアート風に書かれた文字が目に入った。「You really CAN do whatever you want」とある。望みあらば必ず「出来る」か。

そうだ、毎日の生活、手を抜かずに決まったことをやる。やっと努力の成果が積み上がったとしても、脆いそれはなにかの拍子で倒壊することもあるだろう。しかし台座は、基礎は残るのだ。そう思うなら日々に意味がある。たとえそれが「賽の河原の石積み」であっても、決して壊れぬ土台は徐々に積み上がるはずだ。

そんなことを自分もノートに書きなぐってから外を見た。予報的中、細かい雪が舞っていた。曇ったガラス窓の手前でシルバー夫婦も若い女性も、まだ「石を積んでいる」。これではバスも乱れるだろう。もう少し待って美容院から戻る妻を駅まで迎えに行こう。自分も一つ、石を積む。

欲すれば出来る。毎日小さく石を積んでそれが倒れても、土台が残る。「賽の河原の石積み」は大切だろう。