日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

追憶の百名山を描く・聖岳

●始めに: 

日本百名山深田久弥氏が選んだ百の名峰。山岳文学としても素晴らしい書ですが、著者の意とは反して、このハントがブームになって久しいです。自分は特に完登は目指していませんがただ良い指標になるので自分で登れる範囲で登っています。またこのうちで自分で登れる範囲は山スキーテレマーク)で登っています。この深田百名山、どこかで終えたら、あとは自分の好きな山を加えて自分の中での百名山にしたい、その程度に思っています。

自分が登った懐かしい百名山を絵に描いて振り返ってみたい、そんな風に最近思うのです。いずれの山も、素晴らしい登頂の記憶しかありません。時間をかけて筆を動かす事で、その山行での苦しみや歓び、感動を、まるで絵を書くようにゆっくりと思い出すのではないか、そんな気がするのです。追憶の山との再会です。

聖岳 南アルプス 3013m 2001年8月:果てしないボリューム。山頂に立って涙が出ました。

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茶臼岳への登り返し、振り返ると聖岳が静かに夏の日を浴びている。孤高だった。

山行記録は下記(長文です)

聖岳へ  (2001/8/3,4,5 長野県下伊那郡南信濃村静岡県静岡市

1・二年越しの山:

二年越しとはおおげさだが計画しては流れることが二年続いたのは事実だった。

一昨年はアマチュア無線局の免許を山行直前にうっかりして失効させてしまい、これでは山頂での無線運用が出来ぬとパスし、昨年は昨年で近づく台風に山行直前に目的地を変えて1泊2日で済む別の山に変更したのであった。そうすればするほどこの山への思いはますます高まるばかりだった。もう四月の声を聞く頃から来たる山行のことで頭が一杯になってきた。トレーニングのつもりで最寄り駅までの通勤に自転車を使ってみた。半ば記憶しているガイドブックを又開いたりもした。数カ月も前だというのに食糧計画を練ったりもした。興奮と緊張から梅雨明け後の日々はもう魂の抜け殻のようになってしまった。山行予定日が指折り数えられるようになると今度は気が重くなってきた。本当に自分に登れるのか、不安のみが膨らんできた。山行を取りやめれば随分と気が楽になろう、とも考えた。

再び台風が天気図に現れた。どうやら本土上陸は避けられそうだったが稜線での強風を危惧して直前で山行を一週ずらした。それがかえって良かった。「行くしかない」という思いが強まった。自分に都合の良い言い訳を探すのはもうやめよう。行きたいんだろう?行って来いよ!

2・8月2日:

山行計画書を妻に渡し、パンパンのザックの蓋を閉じた。水と明日の昼食分は現地調達なのでまだこれよりも2、3Kgは重量が増えるはずだ。

山行の前、特に泊まり掛け山行の前は家族と別れて山に行くという事を妙に意識してしまう。普段好き放題しているくせに妙に家族のことが気になってしまう。楽しみに行くのに、皆に一時の別れを告げて山に行くのがいやになってしまうなんて、不思議な話だ。それに行く山が自分にとって負担・心配が大きければ大きいほどこの気持ちは大きくなる・・。そんな想いや心配を立ちきるかのように何事もないような顔で家を出た。車に乗ると地球の重力を立ちきって身軽になったロケットのようになって、あとはもう「あの山」の持つ強烈な引力圏に吸い込まれていくだけだった。

清水で東名高速を下りて静岡市手前から漆黒の山道を走り峠の広場で仮眠する。二年越しの憧れの山・「聖岳」の懐に、ようやく入った。

* * * *

聖岳を意識したのは何時のことだろう・・。北岳に憧れて何度か南アルプス北部を歩いたが、当然の如く徐々に中部・南部の山々が気になり始めてきた。手始めに登った塩見岳だが北岳からのそのアプローチの遠大さとともに塩見の山頂からはるか南に続くまだまだ多くの山々にはある種の畏れを抱かざるを得なかった。悪沢岳赤石岳聖岳といったそれらの名前は考えるだけで鳥肌の立つ存在であった。山のスケールがただもうひたすら膨大であるように感じられた。怖かった。登ったら帰って来られないのではないか、という危惧があった。ある夏に意を決して登った悪沢岳赤石岳。長いアプローチのその果てに言いようもない満足感が待っていた。こうして聖岳だけが残った。山伏の山頂から、御坂の山々から望んだ聖岳の存在に憧れはますます高まった。が計画してから早くも二年間チャンスを逃していた。無線免許の失効や台風の接近などもあったが、実はそれらに甘んじて山行を止めてしまった方が気が楽だ、と思ったのも事実だった。やはりあの深い山々に潜在的に抱く畏れは消せなかったのだ。とはいえ自分には梅雨明け後のわずか数週間しかない登頂期間で、決行には「ふんぎり」が必要 だった。今回の山行予定日直前に現れた台風が良い機会を与えてくれた。「行くしかない」という決意を与えてくれた・・・。

3・8月3日:

8:10、畑薙ダム発朝一番の東海フォレストのリムジンバスで椹島の手前、聖岳登山口から聖小屋を目指す。畑薙湖をまたぐ大吊橋を左に見る。予定通り行けば明後日には下山して、あの吊橋を渡るはずだ。緑濃い大井川の源流を行く林道は相変わらず長い。時折稜線をはるか頭上に望むが、森林限界を超えている箇所のみ白く輝いている。透徹した、鋭利な刃物のような光を放っている。あそこまで絶壁の感がある。今日中にあの懐深くまで詰める予定だ。相変わらずのスケール感、武者震いを感じる。

9:00、聖岳登山口にてバスを下りる。2人組2パーティと自分の、計5人をおろしバスは土煙りを上げて椹島へ走り去った。さぁ、もう本当に後戻りできないところにきた。自分を追い込んだ。登るしか、選択肢はない。

ここから今日の目的地・聖平小屋までの標高差は1200m程度。「この標高差、丹沢の大倉尾根と同じだよ」と自分を励ます。海抜1150mの登山口からまずは230mの高度を稼いで1380mの出会所小屋跡までは急登である。まずはここを乗り切ろう・・。軽くウォーミングアップをしていきなりの樹林帯に踏み込んだ。密度の濃い、林だ。つづら折れが早速始まる。いつもより意識して足幅を小さくしてゆっくり歩く。ザックの重みが肩に響く。思ったより空気が冷やりとしており、それが救いだ。

9:35、傾斜が緩み尾根を左手に回り込むと目の下に倒壊した小屋が立っていた。最初のチェックポイント、出会所小屋跡だ。最初の難関は思ったよりあっけなかった。水平のトラバース道に転じてすぐに小さな沢を渡る。これがエアリアマップにも記されている水場だろう。少し早いがザックを下ろす。冷たい水だ。ここで向うから2人連れがやってきた。赤石岳から聖平を回ってきたという彼等は午後の椹島発のリムジンバスで畑薙ダムに戻るという。山行を無事に終わらせる直前の彼らの顔は疲労感の中にも満足感と安堵感に満ち溢れているように見える。自分も数日後にあのような達成感を得られるのか・・・。

道は山の南斜面をほぼ水平にひたすらトラバースしていく。左下から聖沢の流れがゴウゴウと聞こえ始めると聖沢吊橋だった。10分の休憩をとり10:35、レーズンビスケットを2枚口にして気合を入れて今日一番の登りに取り付いた。まずは架線小屋跡までの440mの標高差を一気に詰めていく。すべてのことは、コイツをこなしてから考えよう・・。

つづら折れが続く。下を向いてただ登るだけだ。腕組みをしてみたり、腰に手を当ててみたり、気を紛らわせながら登る。どうやっても登りが減るわけでもない。が、辛い登りなりに歩き始めから一貫して意図してゆっくり歩いているせいか、足は出る。登山道も大きな段差は無く歩きやすい。額から汗がツーとながれて雫となって黒い地面に落ちた。ポタリ、という音が聞こえてきそうだった。

相変わらず深い原生林の中で、この重厚さは南アルプスの持つステレオタイプを裏切らない。右に左に小刻みに方向を変えながら着実に高度を上げていく。ふと傾斜が緩むような予感がすると11:36、架線小屋跡に出た。ああ、なんとか急登箇所はこなした・・。聖沢吊橋からここまで丁度1時間。エアリアマップのコースタイムよりも早い事に満足を感じて少し長めに休むことにした。

さてもう峠は越えたはずで後はもうゆるゆると上ればいいはずだ・・・、と勝手に考えていたがやや斜度が緩んだものの相変わらずの登りが続く。気落ちする。いかんせん長い登り。そりゃそうだ、そう簡単に行くはずはない。じっくりと、ゆっくりと間合いを詰めていく。そうここは南アルプスなのだから・・・。

明瞭な尾根を登っていくと左手から違う尾根が谷一つ隔てて近づいてくる。やや尾根を外れ南斜面をトラバースするように進むと小ピークを右手に巻いて再び稜線に出て尾根を反対側に乗越した。地形からみて今巻いたのが2011mピークだろう・・。ここから北側の斜面をトラバースするように進み始める。傾斜は緩みほぼ平坦となる。ガイド上の「滝見台」はそれと分からずに通過してしまったようだ。もっともこのトラバース道からは深い聖沢を隔てて向かい側の聖岳の大岩壁から流れる豪快な滝がいくつも眺められ道そのものが滝見台ともいえる。左手の山肌から水音が近づき小さな流れが出来ている。これを渡り際に水を一口含んでみる。冷たくて旨い。更に進むと今度は大きなガレ場と化した沢を二箇所横切る。伏流水なのかガレしかない。かなり大規模な崩壊の沢だ。パスすると登山道は大きく右手に戻るように尾根筋を回りこんだ。地形図上に自分の位置を明確にとらえている。尾根の反対側に出ると再びここからゆるゆると登り出す。

ずいぶんと山深くまで詰めてきたつもりだが、まだ眼下の聖沢はその底が望めないほど深く切れ落ちている。あの沢がこの登山道と高度を同じくした所が、今日の目的地・聖平である。まだ、ありそうだ。

倒木でこしらえた素朴な桟道をいくつも渡る。遭難碑のある場所は見晴らしも良い。パラパラと雨粒が落ちてきた。ゴアを羽織るまでも無いだろう。もくもくと進む。高度を上げたり下げたりしながらアプローチが続く。全く長い。が、まだまだと思っていた右手の聖沢の深い谷もいつしか身近に感じられるようになってきた。道が平坦になり聖沢に絡むように道が続く。林相もいつしか潅木帯となり聖平ももう近いのだろう。とここで先ほどから遠くで鳴っていた雷鳴がやおら大きくなり大粒の雨が四方から吹き飛んできた。消防車の放水のような太い水の柱が無数に天空から降ってきた。こんなスケールの夕立には遭った事がない。たまらずダケカンバの中に飛び込みゴアを羽織りザックカバーをかぶせる。もう遅い。わずか十数秒、既に全身濡れ鼠だった。風景が白むような猛烈なシャワーで、しばらくは潅木の茂みの中から出る気がしない。

雨足が一息ついたのを見計らいすっかり気落ちして聖平小屋へ。小屋はそこから10分程度で、幕営料を払いテントを張った。濡れた服をテントの中に吊るし乾いた服に着替える。ああ、長かった。危惧していたアプローチも、無事に終わった。ようやく稜線直下まで上がってきた。バスから見上げた鋭利な刃物のように白く輝く3000mの稜線の懐まで、とにかく入り込んだ。なんとか自分にも歩けた。難関第一号は無事クリアした。小屋で買った350ccの缶ビールを開け喉に流し込んで長い入山初日目が終わった。

雷鳴はその後も続き一瞬強烈なストロボがたかれた様にテントの中が明るくなる。バケツをひっくり返したような狂った雨は尚も降り続き、テントの水没を危惧しながらもいつしか眠りへ落ちていった。

4・8月4日:

朝3:00、隣のテントがもぞもぞとし始めたのと同時に目がさめた。今日の行程は長い。標高差800mで聳える聖岳へのアタックをまずこなしてここに戻る。今度は稜線を反対方向に南下して標高差600mの上河内岳をこなしそこから主稜線を茶臼小屋まで縦走しなくてはいけない。標高差だけの単純計算では1400mもあり、聖には空身で往復できるとは言え昨日のあのアプローチよりもきついことになる。稜線に上がっても楽は出来ないのだ・・・。

収納をしながらラーメンを作る。今日の気の遠くなるようなアプローチは全く気が重く今回の山行の難関の本命だ。ラジオから流れてきた天気予報は晴天だ。といっても午後になれば昨日のように夕立がありそうだ。時間との勝負・・。

撤収し終わった荷物をザックに入れる。何処かにデポできないかと小屋に聞くと乾燥室に置いていって良いという。以前北岳山荘で同じ事を聞いたら置くのは自由だが責任はとれないと言われた。そんなことは分かっている。ここではそんなことはいちいち言わない。登山者数も登山者層も、南ア北部とは違うのだ・・。

予定ではもう少し早く出たかったが結局4:37になってしまった。水と行動食、それにアマチュア無線の機材を入れたサブザックで小屋を出発。丁度ヘッドランプ無しでも行動できる時間であった。木道を数分歩くと県境だ。振り向いて、驚いた。あれが、聖か・・・。でかい。異様にでかい。巨大な山体が今まさに朝の明るさで暗闇の中から立ちあがろうとしていた。夜明け前の静寂を打ち破るかのようにその存在を露わにし始めていた。あれが、聖だ・・あれに、登るのか・・自分にそんな事が出来るのか・・。垂直の壁が目の前いっぱいに立ちはだかって視界から溢れ出る。白い山体が明るみの中屹立して、唖然として、立ちすくむ。

明るくなった稜線はお花畑だ。この時間帯がもっとも美しいのだろう、露に濡れた花々がいっせいに朝を迎えて喜んでいるかのようにきらきらとその水滴を光らせている。5:00、長野県側からの登山道が合流した。薊畑だ。伊那側がガレて切れ落ちておりちょっと下を見る気がしない。高度を稼ぐ。一旦わずかな下り。ここが地形図上の2478mピークだ。海抜2250mの聖平小屋からまだ200mも登っていない。目指すあの山頂までまだ600m近く登るのだ・・。まだまだ、遥か、という感がある。

林相が明らかに変わってきた。カンバの疎林となりスルリと森林限界を超えた。わずかに登り5:46、小聖岳2662mだ。もうここで聖岳が驚くべきその全てを目の前に、完璧に、惜しむことなく、さらしている。垂直の大岩盤。はるかに頭上まで続くその岩に、果てはあるのか・・。長野県側の崩壊は壮絶なガレを成して深く沢に落ち込んでいる・・。目を凝らすと遥か上に動く豆粒がある。先行している登山者だ・・。くらくらした。眩暈がした。気が遠くなった。あそこまで、行くのか・・。

ひたすら砂礫をジグザグに踏んで歩く。進んでも進んでも、登っても登っても、全く何の甲斐もなくこの巨大な岩盤はピクリともしないかのよう。行けども行けども先が見えない。蟻地獄から這い上がろうと無駄に動く蟻。そして立ちはだかる不動の、絶対的存在。

一歩一歩歩く。何を考えているのか・・。汗を吹きそれを拭く。上を見る。又、足を出す。それでも時は来る・・。6:45、頭上の眺めに白い砂礫より青い空の面積が広がった。嗚呼、聖岳、3013m!! これがあの山頂・・。
三年待った甲斐があった。なぜか涙が溢れた。予期していなかった事にややうろたえた。が、お構いしだった。数少ない山しか知らないが、その山頂に立って涙が溢れたのは北岳赤石岳と、そしてこの聖だけだ・・。

素晴らしい展望・・。何よりも赤石岳が素晴らしい。深く落ち込んだ赤石沢の向かい側に重厚なボリュームで立っている。大きな裾野で威風堂々としている。北岳ではなく赤石こそが南アルプスの盟主という、そんな思いが強まる。その背後に大きく翼を広げた怪鳥のようなシルエットは悪沢岳だ。赤石も悪沢も三年前にその山頂を踏んだ時はガスに包まれ展望はなかった。が、こうしてみると改めて立派な山である。その更に奥にちょこんと山頂のみを見せているのは見誤るはずもない、塩見岳。そして際奥に端正な三角形のシルエットは仙丈岳。位置関係上北岳が見えないのは残念だが、これら南アルプス北部のスター達に遥か離れたこの聖岳の山頂から再会のエールを投げる。南を見れば、これから目指す上河内岳から茶臼岳、そして光岳、重厚な山がひたすら連なっている。なんという山並・・、言いようもない畏れ。光から先は、何だろう、池口岳か、黒法師岳か、不動岳か・・。憧れの大無間山はすぐに判った。小無間から牛の背のように長い背骨をその山頂まで伸ばし素晴らしく立派だ。しかしそれらばかりではない。その、手前に、周りに、奥に、限りない山また山。重なり合う有名無名。もう 山しかない・・・。このスケール感、あっけにとられ体から力が失われていくのを感じた・・。

ダイポールとピコ6をセットしアマチュア無線50MHzを運用する。40分ほど粘って9局と交信。3000m級山岳にしては冴えない結果ともいえるがEsも出ており、納得。交信成果よりもなによりも憧れの頂で50MHzの無線運用をしたことに言いようの無い喜びを覚えた。

憧れの山頂に立った。屈指の展望をえた。50MHzの運用をした。満足は果てしなく思い残すことはなかった。赤石岳に軽く挨拶をしてきびすを返した。8:00、白亜の絶壁の下り道。

    
* * * *

聖平小屋には夏の日差しが溢れていた。一仕事終えたように思うがまだ9:25なのだ。すでに足ががくがくで、今から稜線に戻り上河内岳まで標高差600mをつめその先茶臼小屋まで、5時間近い行程をこなせるとはとても思えない。とはいえここのところ連日して午後2時半になると夕立と雷鳴の定期便とのこと。行くなら時間との勝負だ。といっても・・。行くしか、ないか・・。

照りつける日差しの下、昨夜の雷雨で濡れたままのテントを取り出し乾かしながらストーブを取り出し昼食を作る。長い行程にシャリバテは禁物だ。10:20、疲れた体には鉛のように重いザックを背負い再び稜線に戻った。

上河内岳へ。標高差600mという数字が頭に重くのしかかる。今からこのアルバイトは今の自分には辛いを通り越している。ここはローペースで行くしかない。なあに600mなんて高尾山に毛が生えたようなもんだ。今高尾山口の駅についたと思えばいいのだ・・・。自分にとって分かりやすい縮尺にしてだますしかない。

頭の中を真っ白にしてひたすら登る。森林帯から灌木帯へ。急な登りでは一歩一歩のステップを小さくする。辛い登りだが意識してゆっくり行っているせいか、思ったより足が前に出る。これは行けるか・・?ダケカンバの疎林から森林限界を抜け出た。頭上遙か上の岩稜に先行するパーテイが蟻のように見える。一山、一山のスケールがもうひたすら大きい・・。痺れそうなこの長大さ。これが南アルプスなんだ、これを味わいたくて、登っているんだろう・・、と自分に言い聞かせるがそれはあくまで机上での話。実際に歩いているときはたまったものではない。汗が額から流れ、顎から雫となってポタリ・ポタリと落ちていく。乾いた岩肌に滴った汗が黒いシミを作る。首にかけたタオルで顔を拭い空を仰ぐとやはりここは高尾山ではない、青い空に切り込んでいくかのように白い稜線がひたすら高く、長かった。

少し伊那側から風が出てきた。帽子を脱いで両手を上に伸ばすと蒸れた頭の中とわきの下を冷たい風が吹き抜けて心地よい。振り返ると登ったばかりの聖岳が美しいその姿を出し惜しみなく見せてくれていた。離れて見ると屏風のような、大きな岩の障壁のような、惚れ惚れとする素晴らしい山だ。

南岳まで何とか登り前方に綺麗に尖った上河内岳を見た。ようやく、肩を越えた、感じだ。が、早くも信州側から黒い雲が流れ始めすべての眺めを消しこみはじめる。上河内岳がスッとガスの中に消えた。目の前の目標がなくなってしまった。風が激しくなって訳もないのに不安間が膨らんだ。気落ちして上河内岳の肩へ最後のガレを突き上げた。13:00、ガスの中指導標が浮かび上がって上河内岳山頂への分岐だ。ああ、やっとここまで登ってきた。辛いアルバイトも、ここで終わりだ・・・。

サブザックに無線設備を放り込み上河内岳をピストンする。ガスはますます濃く視界数メートル、瓦礫の中から登山道をトレースするが見失いそうだ・・。山頂で、雷を恐れて50MHzアマチュア無線運用はわずか10分のみとする。とにかくこなした、という感じ。濃いガスの中からぬっと人影が現れ、一人登ってきた。肩に戻ると相棒と思われるもう一人が足を投げ出して指導標にもたれ掛かって休んでいた。辛いのは自分だけではない。妙に安心した。


独り真っ白なガスの中を夢遊するかのようにひたすら歩く。ガスの粒子が流れてきては吹き飛んでいく。生きている霧の粒、何をそんなに急いでいるのか? 竹内門が霧の中から浮かび上がる。大きな二枚岩だ。14:06、通過して再びガスの中。独り彷徨うように進む。自分はなぜこんな所にいるのか、誰も居ないガスと岩稜の中、ただ独り。枯野の中を無窮に向かって歩いている、これが寂しくなくてなんだろう・・・。小屋はまだか、このまま行き着けないのではないか・・。いや、でもこの気持ちは決して嫌じゃないんだろう。ひと気のない白い世界、寂しさ・怖さからのがれるようにひたすら歩く。痺れるような、下界ではまず味わうことの出来ない世界・・・。

ガスを抜けてだしぬけに小広い草原に出た。地図にある「お花畑」だ。ここは・・・。二重山稜の窪地。もの寂しいその草原に圧倒的な静寂さが満ち溢れていた。別天地だった。四周ぐるりと誰も居ない。風も、ない。数歩歩く。草を踏む音。足を止める。音もない。恐い。静寂が、孤独が重い重量感を伴って襲ってきた。と、無音の世界を破って「ピーッ」と鳴き声。鹿だ。ハッと耳をすますと無音ではない、静けさの持つ「音」があたり一面に満ち溢れていた。鳥肌の逆立つような、一瞬足を、体を、鼓動を、呼吸すらを止めざるをえないような凄烈とも言える美しさ・・。こんな山深い地に人知れずある、夢幻郷。深い樹林帯、長いアプローチばかりではない。これも、南アルプスなのだ・・。

草原の果てはカンバの林だった。それを抜けると今度は緩くガレた山肌を登り始めた。ここへ来てまだ登りがあったことにがっかりする。ゆっくり登っていくと森林限界が再び近づいてきて、同時に頭上に続く道が再びガスの中に消えていくのが見えた。再びガスの世界だ・・・。視界の効かない濃霧の稜線。歩いていくとパラパラというプロペラのような音が耳を打った。何だろう、この音。そら耳か?体の向きを変えると又パラパラとくる。何かと思えば稜線を渡る風にザックのサイドストラップがはためく音だった。その音に我に帰った。茶臼小屋までもう少しのはずだ。あとわずか、頑張ろう。

ホトトギスが随分と暢気にないている。それに励まされるとガスの中にボーッと浮かぶ指導標を見つけた。小屋まではそこから10分もかからなかった・・。

15:05、ガスを抜けて茶臼小屋着。トリカブトの群落を前にテントを張った。紫の花が心を落ち着かせてくれる・・。横になり目を閉じるとさっきまでの光景がありありと目の中に浮かんできた。長い稜線歩きだった。感動と充実の頂から寂しさと不安の白霧の尾根まで、展望も心の高揚にも大きな起伏のあった一日。雷鳴に会わなかった事を喜び、何よりもこの自分でもあの長丁場を歩けたことが嬉しかった。

テントから顔を出しボーッと外を眺める。もう今日は何もしなくてもいい。缶ビールを片手にでまかせのワグナーを口笛で吹きながら、もうひたすら酔いに委せていくこの快感は何だろう?刻々と暗くなっていく周りの山が、風に揺れるトリカブトが、湯気をあげるコッヘルが、できたてのラーメンが、ただ嬉しかった。

赤く焼けていた笊ケ岳が闇に沈み、長い一日が終わろうとしていた・・・。


5・8月5日:

下山日。ガスが風に乗って間断なく流れてくる朝だった。今日は茶臼岳をピストンし、下りるだけでさほど急ぐことはない。昨日までの疲れか、シュラフの中がとても心地良く出る気がしない。小屋泊まりだと朝食時間も決まっておりだらだらもできないが、テントは全くもって自由なのだ。とはいえ、今日もそれなりに時間が掛かる。意を決して撤収。ああ、でも今日山を下りるのは少し寂しいな・・・。といっても下りれば家族にあえる。それは嬉しい。

テントを畳みザックを小屋に預けに行くともう小屋はがらんどうだった。6:20、無線機を詰めたサブザックで稜線へ上がる。ガスが濃い。風が猛烈に強く帽子が飛ばされそうだ。ガレキの続く稜線を辿る。ガスの中にケルンが累々と浮かび上がり、不気味でもある。分岐から茶臼岳へ登る。頭上から声が聞こえるが濃霧で視界が無いのでもどかしい。岩がゴロゴロする中を辿ると指導標があり、6:50、茶臼岳2604mだった。

50MHzを開局する。朝が早いせいか、声がかからない。とJS1MLQが呼んできた。北アの唐沢岳からだった。南アを制したMLQ局は今年から北アに本格的進出のようだ。MLQと交信できたことに満足を覚え、閉局する。ガスの中からパーティがやってきて、これから光岳だという。彼等が羨ましくもある。でも、光岳はまた来年の楽しみにしよう・・。

さて、あとはひたすら長いくだりをただもう下りるだけだ。標高1700mを、一気に、転げ落ちるように、下りるだけだ。地形図の等高線は過密の一本槍で面白いように高度を下げていく。樹林帯は深く最後まで南アルプスらしさを感じさせてくれる。さすがに腿の上部の筋肉が痛い。面白いもので下界に下りると思ったとたんに途端に色々と現実的なことが急速に頭に浮かんでくる。まずは頭が痒い。風呂に入って、ビールを飲みたいと思う。うどんを食べたいと思う。早く下りたいと思う・・。9:20、横窪沢小屋で1本立てる。水道の蛇口をひねり頭を浸す。たまらずに頭をかきむしると気持ちが良い。小屋番は無愛想そうな親父さんだがよく冷えたミカンのゼリーをご馳走してくれた。

やや登り返しふたたび物凄い急降下が続く。しかしこの道は登りには使いたくない。とんでもないアプローチであろう。勇壮な沢音が近づき鉄梯子を下りるとウソッコ沢小屋だ。10:47。古びた無人の避難小屋だがしっかりしており中身も整理されている。ここからは吊橋が連続し、ヤレヤレ峠へ向けての最後の緩い登りとなった。この登り返しが疲れた体には応える。長く感じられる。もう焦る事はないのに下界への想いが強い。峠について、ヤレヤレ、と思わず声が出た。

山行の最後は畑薙大吊橋だった。怖い。スリル満点で、板とワイヤーの隙間からはるか下に大井川の白く乾いた川原が見える。落ちたらひとたまりも無いだろうと考えると足がすくんで前に出ない。前だけ見てると幅40,50CM位の踏み板を外しそうだ。風が吹いてきて揺れが激しくなったような気がする。なんとか渡り終えて林道に出た。すべてが終わった。12:40。長くとも、短かったとも思える。しばらく歩くと東海フォレストのリムジンバスが畑薙ダムに向けて走り去った。行きのバスから見たように、今自分もこうしてこの吊橋を渡り追え、歩いている。満足感に満ちた顔をしているかはわからないが、心の中は達成感であふれそうだ。

* * * *

畑薙ダムの登山指導所で下山届を書いていると指導所の人が熱いお茶をご馳走してくれた。そのまろやかな番茶の味に、あー、下りてきた。もう本当に終わった、と思うが涌いて来る。車に戻り、赤石温泉・市営白樺荘に立ち寄る。湯の花の浮く湯に3日間の汗を流して350ccの缶ビールとうどん、と3つの欲望を一気に果たし上げる。2年越しの聖岳。何時までたっても憧れの南アルプス。夏山とは辛いだけのものだ、と口走りながら歩いた3日間だったが終わってみると過ぎ去ったこのわずかでもあり長くもあった時間があぁ本当に惜しい惜しい。あの気絶しそうな登りすら懐かしい。あの果ての無い聖岳へのアプローチが懐かしい。ガスを抜け出て目の前に広がったあの寂寥感溢れる夢幻境のようなお花畑は本当にこの世のものだったのだろうか・・。登れるか、歩けるかという不安、未知の深い山への畏れ、めくるめく風景の展開、独りでいる事の寂しさと楽しさ、そして歩ききったという満足。そしてなによりも深い樹林帯・巨大な山々はそんな私の心の起伏をも飲み込んで余りあるほどの存在感だった。

今度はいつ又来れるのだろう。自分の域をはるかに越えた感のあるこれらの山に来るには自分には半年も1年もの長い心のプレヒートが必要だ。じっくりと確実に自分自身をプレヒートさせながら登る山。又、今から心の中に目標を見つけ、ゆっくりとゆっくりと、気持ちと体を向けていきたい。そうして登った山が決して裏切らない満足感を与えてくれることを自分は知っている。

又会えるであろう長いアプローチと遠大な眺め。達成感と、期待感と。僅か一本の缶ビールの酔いで、頭の中がゆっくりと混濁してきた。それは抑えきれない、気の遠くなるような喜びであった。

(終わり)
コースタイム:

8月3日、登山口9:00-出会所小屋・水場9:30/9:45-聖沢吊橋10:26/10:35-架線小屋跡11:36/11:50-2010m峰12:40/12:50-遭難碑14:30-聖平小屋15:30

8月4日、聖平小屋4:37-薊畑5:00-小聖岳5:46-水場6:07-聖岳6:45/8:00-水場8:23-小聖岳8:37-薊畑9:10-聖平小屋9:25/10:25-2610mピーク12:25-上河内岳分岐13:00/13:05-上河内岳13:15/13:35-上河内岳分岐13:40/13:47-竹内門14:06-茶臼小屋分岐14:53-茶臼小屋15:05

8月5日、茶臼小屋6:19-茶臼岳6:50/7:20-茶臼小屋7:40/7:55-カンバの段8:20-水場8:30-横窪沢小屋9:20/9:40-中の段10:11-ウソッコ沢小屋10:47/11:00-ヤレヤレ峠11:57/12:10-林道12:40-畑薙ダム13:48