日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

山上の至福 鍋焼きうどん・鍋割山

転勤で静岡県東部の街にある事務所に通っていた頃の話だ。職場には「昼礼」という慣例があり、事務所の社員が持ち回りで、ちょっとした話をしたり、連絡事項の共有をしたりしていた。

ある時、入社2,3年目の自転車大好きな社員の番だった。「山の上で名物の鍋焼きうどんを出してくれるお店があり、そこに行ってきた」という話だった。

彼によるとそれは、「とても大変な登山、頂上に古びた掘っ建て小屋がありそれがうどん屋さんなんです。親父さんは無口でちょっと怖かった、ナベワリという山なんです」、そんな話だった。

昼礼が終わって、廊下で彼に耳打ちをした。知っておいてほしかった。「あのご主人はとても有名な方なんだよ。あの小屋も自分で資材を担ぎ上げてご自分で作ったってさ。山の名前もあり、鍋焼きうどんを名物にしているけど、本来は山小屋だよ…。」

丹沢の表玄関は大倉で、そこから塔ノ岳(1491m)に向けて一本調子に突き上げる大倉尾根は「バカ尾根」と呼ばれるなかなか大変なルート。塔ノ岳下部から西に、塔ノ岳とは異なる山群があり、鍋割山稜と言われている。その主峰・鍋割山(1272m)は塔ノ岳と並び表丹沢の代表的な人気の山だ。関東のハイカーなら誰しも登る山と言えた。

その山頂にはありがたい事に山小屋がある。それが、鍋割山荘。山小屋なので食事付きで宿泊もできる。ご主人は、この山小屋の資材をすべてボッカで、自力で上げて、造り上げたというから驚きだ。そのご主人はヒマラヤの登山で足の指を凍傷で失っているというから尚更驚異的な話だった。ご主人、草野さんは山の雑誌にも何度も出ていて有名なお方だった。

もう35年近く前だろうか、初めて塔ノ岳に登った時に、下山ルートは大倉尾根ではなく鍋割山稜を選んだ。山頂は多くのハイカーでにぎわっていた。それから何度鍋割山に登っただろうか。やがて「鍋割山の鍋焼きうどん」が有名になり、縦走のついでではなくそれ目当てで登ったこともあった。

山の上だからと言って、一切の妥協もない鍋焼きうどんだった。鍋もしっかりしたもので、生の卵が落とされているのだった。薄暗い小屋の中で、ご主人自らが作られてお盆ごと手渡されたのをよく覚えている。富士山が冷たいガスに包まれて見えない肌寒い秋の日だった。体は芯から暖まり、それは至福の味だった。

久しぶりに丹沢の縦走を計画した。大きな丹沢の主脈を北から南まで縦断。下山は大倉尾根ではなく鍋割山稜を選んだ。もちろんぐつぐつ音を立てている鍋も、そして具も味も、すべてが変わらなかった。今日もやはり秋の日。雲が隠れると海抜1200mは肌寒い。20年、いや25年前?変わったのは値段だけだった。当時の1.5倍になり1500円だったが、それを高いという人は誰もいないだろう。この材料が、新鮮な玉子も含め、すべてが人力によっている、ボッカされているという事を考えると、安いかもしれない。

下山の途中に、頭にバンダナの鉢巻きでまさにボッカで登られてくる草野さんをお見かけしたこともあった。それは、ちょっとした「荷物の塔」が動いている感があった。登山道と沢の出会いにポリタンやペットボトルが置いてあり、札があった。「登山者の皆様へ、稜線は水が不足しています。沢の水を汲んで登っていただければ助かります」とあり、水場のない稜線の小屋の営業がいかに大変なものか、想像できた。その時はピストンのルートだったが、往路では自分のザックの重さで精いっぱいで何のお手伝いも出来なかったことを、自分は恥じた。曖昧になりかけている、遠い昔の話だ。

今回も又鍋割山から下山したので、沢水のボッカには貢献できなかった。しかし以前は確かに在ったはずのそんなポリタン類も今回は見かけなかった。今回のうどんは若いスタッフが作られていたようだ。あのご主人はご健在なのか、今回はそのお姿は薄暗い小屋の中では判別がつかなかった。

しかし、もはや伝統と言っても良いだろうその味と、熱いうどんは何も変わらなかった。山上に至福あり。山小屋スタッフの熱い志に支えられ、これからもそれを目当てに登ってくる登山客は幸せに包まれる。

昔と変わらぬ熱々の鍋が出てきた。落とし玉子もありがたい。秋の山には身も心も温まる。これが目当てで登山する方がいても不思議ではないだろう。

全ての資材をご主人がかつ上げて作られたという。いつしか小屋の前にはソーラーパネルも設置され時の流れを感じた。とはいえ、水でご苦労されている事には変わらないのだろう。