小さなサイクリングをした。雨を承知で走ったのは前回の走行が自分にはやや不本意だったからだ。我が家から隣県の長野は近い。そんな長野県まで県をまたいで走ってみた。アカマツから草の原へと進む往復十六キロは良いルートだった。途中で何かのトラブルがあり走れなくなった時を考え輪行袋をも携行したがそれは不要だった。
地元の駅に戻ってきた。我が家はすぐそこだが駅前で一休みだった。前回のツーリングではギアの歯飛びがあった。車輪を嵌め直して挑んだショートランだったが結果は同じだった。八段カセットの特定のギアにチェーンが乗るとガタガタと飛ぶ。そこは常用のギアだった。歯飛びだな、と検分していた。
「好いですねそれ!トーエイはいいね。」
そう声を掛けられた。振り向くとタクシーの運転士さんだった。高原の駅でのタクシー業は長閑なものに思えるが一旦新宿からの特急列車が来ると事態は変わる。ウィスキー醸造所、リゾートホテル、道の駅、登山口へと三々五々車は散っていく。まだ特急の時間ではないのか客待ちタクシー数台が並んでいた。
最後尾の一台のドライバー氏は車を降りて自分のランドナーを見に来た。彼も同好の士、東叡社のランドナーのオーナーだった。頻繁に無線が鳴るので彼は直ぐに車に戻った。自分が車の助手席扉に行き話は続いた。東京は武蔵野あたりのご出身という事、合宿でこのあたりに走りに来ていた事、何時しか自分もこの地に住んでいた事、そんなお話を伺った。武蔵野だったらジンガネさんですか?と聞くと当たりだった。彼からはフレンド商会やハセガワさんの名前も出てきた。ランドナー乗り御用達のお店と言えば幾つかに集約される。最近はもう走っていないのだけど・・と言われる彼は自分より五、六歳年上に見えた。ベテランサイクリストさんの話は楽しい。まだまだ話をしたかったが無線のスケルチが開いた。どうやらご指名らしい。
出発間際に彼は聞いた。「音楽はお好きですか?」と。そして一枚のパンフレットを手渡してくれた。それは高原のホールで行われるピアノ演奏会の案内だった。上質紙に印刷されたリーフレットの裏に主催者のペンネームが書かれていた。それが彼だった。まだ二か月先の話、予定など無いだろう。伺いますよと二つ返事だった。彼はタクシー会社の名刺も渡してくれた。そちらは商売用だったかもしれぬが彼のハンコが押してあるので指名が出来ると思った。
一台の自転車を通じて知らない世界が広がる。端緒など何でもよい。知己が広がり見知らぬ世界が見えてくることは今の自分には大切なものだった。素敵な音楽会だろう、そう思いながら坂を登り家に戻った。