日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅37 マゼランの世界一周

●図書の旅37 マゼランの世界一周 シュテファン・ツヴァイク作 白木茂訳茜書房1975年

そこは確かに新宿・歌舞伎町にある居酒屋だった。マルコ・ポーロという店名だった。友と二人で歌舞伎町に来たのには目的があった。街の東側には当時はビニ本屋が多くあった。「ビニ本」という言葉は今は死語だろう。ビニール袋に包まれて開封できないからそう言われていた、女性のヌード雑誌だった。青年誌のヌード写真とは異なりより煽情的で直球だった。自分たちの目的は更に過激なものだった。それには店の奥のカーテンの向こうに行く必要があった。それをくぐるのはドキドキした。「裏本」と呼ばれるそのヌード本は陰部に修正がされていなかった。選んだ一冊は「椿姫」というタイトルだった。

写真とはいえ成熟した大人の女性の全てを見るのは初めてで余りに衝撃的だった。ああここが生命の泉か!と思ったのは少し経ってからで、まずは固唾をのんだ。面妖と書いたら失礼かもしれないが複雑な形状は神の造形の妙を感じたのかもしれなかった。ある写真ではよりによって茄子を挿入していた。おい壊れないのか?と思った。熱いものを体の奥に感じたが、友がいた。事をなすには遠い自宅に早く帰りたかった。

折角なので居酒屋でお互いの戦利品を友とじっくり回して見た。心臓は早鐘がごとく動き頭はグルグル回った。まだ18歳だった。いざアパートへ戻らん、と勇躍店を出る時に気がついた。この店はマルコ・ポーロというのか。「東方見聞録」を書いた彼か。僕らは今日始めて「女性見聞録」を手に取ったのだと思った。

アメリカ大陸を見つけたのはコロンブスだがその少しあと、大航海時代に出てきた有名人の功績をきちんと知らない。くだんのマルコ・ポーロバスコ・ダ・ガマ、そしてマゼラン。南米の海峡にその名を残しているお陰でマゼランは大西洋から太平洋に初めて抜けた冒険家、という事は知っていた。ネットの情報を借りて彼らの現在での国籍と生きた時代を整理した。

マルコ・ポーロ(イタリア)1254〜1324
コロンブス(イタリア)1451〜1506
バスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)1469〜1524
マゼラン(ポルトガル)1480〜1521

となる。マルコポーロは一、二世紀早い人物。残り三名の生きた時代は重なっている。東方見聞録はマルコ・ポーロが父とシルク・ロードをたどり見聞きした話をまとめたもの。復路は途中まで船のようだった。コロンブスは大西洋を横断しアメリカ大陸発見、バスコ・ダ・ガマはアフリカ大陸南端希望峰を周りインド洋航海路を開いたとある。マゼランは南米を回り太平洋に抜けた。七つの海はこうして開拓され暗黒大陸も消え地球の地理が解明したのだろう。

今回はマゼランの航海についての少年単行本を手にとった。当時のポルトガルが如何に勢力を持っていたかがわかる。国王の力は大きくバスコ・ダ・ガマのインドルート開拓によりスパイスを欧州にもたらし隆盛を極める。若きマゼランはバスコ・ダ・ガマに刺激を受け南米を回り世界一周の計画を立てる。しかし何故かポルトガル王の援助を得られずに、隣国スペインで艦隊を編成し南米を目指す。国も思惑も違う艦隊はまとまることもない。それでもマゼランのリーダーシップのもと、ようやく南米末端に迫る。荒れ狂う風と荒涼たる極寒の地・パタゴニアだった。いくつものフィヨルドがつづき対岸に抜けられぬかとしらみつぶしに調べていく。ようやく見つけた入り江は果て無く続き太平洋にでた。海峡はまさに彼により発見された。マゼラン海峡だった。

このあたりは禿げ頭の自分が読んでも今でもわくわくするものだ。冒険旅行記はいつも年齢を問わずに魅力があるのだ。残念ながらフェルディナンド・マゼランは現在のマレー半島辺りで原住民との間での戦いで客死する。しかし艦隊はヨーロッパに戻る。

今や世界中に未知の地は存在しない。人工衛星がすべてを監視しGPSシグナルで自分の居場所もすぐにわかる。便利だが夢の無い話でもある。

さて五十年近く前に歌舞伎町で買われた「椿姫」はその後多くの友人の手に渡り見聞録として彼らの開眼の一助となっただろう。知る限りそれは本の態をなさずに紙切れになっていた。ふやけて糊づいたページもあった。その役割を果たした証左だろう。しかしそれを最初に手に取り目を見張った人物は未だに女性の何たるかがわかっていないようだ。長く供に過ごしてきている配偶者様に直ぐに怒鳴り散らすし誠実な対応もしないのだから。マゼランのように客死せぬよう、改めるべきだろう。

少年文学でも冒険ものは楽しい。若人も老いた人も広める見聞と冒険心は持ちたい。

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