日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

図書の旅43 女のいない男たち

● 女のいない男たち 村上春樹 文芸春秋社 2014年

自分にとっては三冊目の村上春樹になる。図書館の棚には知らない作家ばかりとなったが足が止まる条件とはこんなところだろうか。知っている作家の場合。知らなくともその本の題名に目が留まった場合。もちろん村上春樹は知っている。自分でもその題を知っている「ノルウェイの森」を手に取ろうとしたらその横にあった。本の題名に惹かれた。つまり図書館の棚で足が止まる二つの条件を満たしているのだった。

「女のいない男たち」か。それは自分には想像できない。アダムとイブの時代から男と女はこの世にいる。地球がやや傾いた軸を中心に西から東へ自転するように、風が高気圧から低気圧に向かって吹くように、自明の理として二つの性は共存し、そのおかげで人類は営々とつながっている。どちらが欠けたらどうなるのだろう。そんな事を本の題名を見て考えた。

手に取ってみると短編集だった。近年映画になりアカデミー賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」が収められている。躊躇なく借りた。読む前に想像した。この短編集には「女に興味が無いから、いやあるが機会が無く一人で過ごす男性」か「女を失って寂しがる寡夫の話」が収められているのだろうかと。確かにそれもあった。しかしそれはそんな男や寡夫の話ではなく、相方となる女性とは何か?をも含め掘り下げたものだった。

老化のせいか感性の低下なのか、いやそんなものはもとからなかったのかもしれないが、きちんと作者のテーマを理解できたかは自信が無い。女性という性の謎、女性の性欲、それらを通じて自己に向き合うということを書きたかったのだろうか、いやそれは浅い考察だが、それ以上は掘り進めなかった。

「ドライブ・マイ・カー」の中にこんなくだりがあった。主人公の妻はガンで死んでしまう。生前妻が浮気をしていたことを彼は知っている。その浮気相手と彼は知り合う。彼が妻を愛していたのと同じほど不倫相手も妻を愛している。彼は不倫相手の綺麗な手を見てこの手が妻を愛撫していたのか、と考える。なぜそんな事をしたのかとの妻に聞く事もなく彼女は世を去った。そんな話を彼の雇われドライバーの若い女性にすると彼女はこう言う。「奥さんはその不倫相手に惹かれていなかったのです。だから寝たんです。女の人にはそんなところがあるのです。病の様なものです」と。

「独立器官」という短編もすっと入ってきた。独立器官とは面白い題名だった。その題から僕は直ぐにあるものを思い浮かべストーリーを想像した。男子なら中学生になる前にだれもが知る。自らの下腹部にある、自分の意志とは反して全く独立して膨張・収縮を繰り返すあの器官のことを。熱気と湿気を持った下腹部は石の様に重くなり処理をしないといけなくなる。それは彼の全てを司る。それを持つ哀しみを書いているのかと。しかし違った。主人公はとある男と知り合う。彼は優秀な美容整形外科医で身の回りのことを不自由なく綺麗にこなし女性の手を必要としてない。しかし性行為の相手には不足しない。そんな関係を女性と続けることはその医師の活力の源だった。いつも通りに彼は夫も子供もいるある女性と関係を持つ。しかし彼には珍しい事にいつもの割り切った関係から深入りしてしまったのだった。彼は既に恋の病にかかった五十二歳の男だ。不倫相手は別れを言い渡し去ってしまう。そして知る。彼女は医師とも別れた上に夫と子供とも別れ、今度は新しい男と同棲を始めていると。彼は魂を病んだのか自らそう決めたのか、拒食症になる道を選び心不全で世を去る。医師は生前主人公にこんな事を伝えていたという。「すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官が生まれつき備わっている」と。すべての女性は何処かの時点で必ず嘘をつくしそれも大事の所でためらわずに嘘をつくと。嘘をつく際には彼女たちは顔色一つ変えない。それは彼女たちの独立器官がそうさせているから・・と。彼女は医師に嘘をついていたのだろう。どんな嘘なのか・・。

「シェラザード」。この短編こそがこの短編集の中で一番惹かれた。舞台設定はわからぬが、多分、軽度の障がい者施設ではないだろうか。それは著者はつまびらかにしていないのだから想像を許してほしい。そこに入居する男性の元に週何度か来るヘルパー(であろう)の女性。彼女はよくある一般の家庭の主婦。その際に彼女は必ず話の聞き手になるその男性と肌を重ねる。そして果てた後に自らの性の遍歴について語っていく。十七歳の頃好きになった同級生の男子の家に忍び込んだ。彼の使っている鉛筆を盗み出して自分の髪の毛を部屋の隅に残していく。家屋侵入は何度も繰り返され、最後には洗濯機から彼の汗臭いシャツを盗み出し彼女はその匂いに初めて恍惚に至る。証として自分の下着を残そうかとしたがそれは濡れており、躊躇した。その次の話を聞きますか?と言い残し、この話は終わる。よくある下着泥棒の女性版なのだろうか、いや、特定の男子への思いがそうさせたのだ。女性でもそんな表現方法を取るのだろうか?

自分は村上春樹がここまで性と性行為を露わに文章にするという作家だとは知らなかった。しかし思えばそれは当たり前の話だろう。生と性はひとつのものなのだから。人間が生きる様を掘り下げて書くのなら性について触れないと実体感を欠くであろう。谷崎潤一郎にも吉行淳之介もうそうであったではないか。そしてまた作品にリアリティを持たせるにはその描写も彫り込まなくてはいけない。

平易でわかりやすい文体だ。また掌編の題名であるドライブ・マイ・カーやイエスタディなどはビートルズの曲名であり、文中には多くのソウルやジャズミュージシャンの名前をまるで背景の様に登場させる。頭の中の世界を文章に落としていくときの懸け橋あるいは飾りとしてとして音楽を使う、それは上手い手法に思える。

女は平気で嘘をつく、大切なところで躊躇わずに。本当だろうか。女のいない男たち。女とはそんな厄介なものだから一人でいるのなら気楽でいいのだろうか?あるいは別離してほっとしているのだろうか。自分の働いている職場には毎日それこそ200人、300人の男女がやってくる。若い夫婦も老いた夫婦もやってくる。笑顔もあればいさかいもある。何百ものストーリーがある。そんな人々を見ながら、この本の読後感をどう書けるのだろうかと考えていた。誰もが生きている。そして性に向き合う。完了形もあれば現在進行形もあるだろう。

全く人間とは不思議だな、そんな事が感想になるのだろうか。著者の言いたいことも多分理解していない。それが出来ない自分には僅かな空虚も残る。図書館で足を止めたのは正解だったのか?もしかしたら僕はこの本を買うかもしれない。

結局深いところまでは読めなかった。理解力の無さ、感性の喪失を知ったのみだったかもしれないが、あるいはこの本を買うだろう。