日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

自由と不自由

職場の戸締まりをしていた。ある部屋に羽虫がいた。大きな蟻羽にも見えた。

家や建物に侵入した虫はゴキブリ以外は殺生をしたくない。何とか戸外に出せないか考えた。

手っ取り早いのは手で捕まえて戸外に飛ばしてやることだった。ティッシュを手にして捕まえようとした。これは蛾や、場合によっては蜘蛛にも通用するやり方だった。しかし今回の相手は風に乗りふらふらと飛ぶので捕まらない。壁紙が白いので時折そこに止まる。良いチャンスと手を伸ばすがすんでで逃げてしまった。

あなた、早く出なよ。このままだと餌のないこの建物の中で死んでしまうよ。そう言いながらハタキで扇ぐか、大きな団扇で風を作って追い出すか、などとも考えた。無理に空気の流れを作っても意味はなく彼は気ままに飛翔している。

薄暗くなっていたので、確実な方法として、窓を全開にして部屋の明かりを消して扉を消してしばらく放置しておいた。登山でのテント場で羽虫が出る事もある。万一テントの中に入ってきたら、ランタンやヘツデンをテントの外に置いて明かりで誘い出す、あの方法だ。職場の窓の隣は隣家だが街灯もあるしいくらか明るいように思えた。

閉館の時間になり再び部屋に入り明かりをつけた。羽虫はもういないようだった。良く逃げてくれたな。ガラス窓を締めて仕事を終えた。

数週間たっただろうか、仕事のたびに出入りする部屋ではあるが、棚の上の書類を引っ張り出したら一緒に干からびた虫の亡骸が落ちてきた。酷く軽いのかカサリとも音を立てなかった。すでに無機物だった。間違えなく彼だった。あれほどフラフラと飛翔し自由を謳歌していたのに、外に出られる機会も作ったのに出なかったのは何故だろうかと考えた。

自由に飛び回れても、結局は彼の手の届く範囲内が一番快適だったのかもしれない。あるいは外敵が怖かったのか。生きる場所としてどこを選ぶかは彼次第、彼の自由だった。何となく選んだのか、必然的にそうしたのか、あるいは下界への出口に気づかなかったのか。それは分からなかった。

自由とは自らを律するものがあるからそれを感じることができるのだろう。会社も辞め社会人と言う属性を失った自分はそれでは自由なのだろうか。社会人の持つ不自由さは無くなったが今度は新たな不安要素が増え、それが自分の心を不自由にしている。健康、老い、これからに向けての漠然とした不安。これは拭えない。

聖書での自由の位置づけはどうなのだろう。興味があったのでネットで調べてみた。すると、こうあった。「真理を知ると真に自由になる。」(新訳聖書・ヨハネによる福音書 8章32節)その説明書きを読んでもあまり理解できなかった。ただ、この真理とは言葉や光、命、そしてイエスの教えだとはわかった。信仰心の無い自分にはわからないが、自分なりにこう解釈するとうまくはまった。「真理とはいかなる生物もいずれはこの世からいなくなり光の無い世界に行く事。それを自覚し受け入れると、自由を手にする」と。この自由とは「楽」とも言えそうだ。…そんな悟りは開けるのだろうか。

カーペットの床に落ちた亡骸をティッシュでつまみ職場の外の庭に置いた。季節が来るとアヤメが咲く場所だった。たちどころに微生物が彼を分解し、土が豊かになるに違いなかった。彼は何らかの光を求め自ら不自由な場所を選び自由を手に入れたのだろう、そう思うともう少し早く彼の亡骸を見つけるべきだったと、少し悔いた。

彼の亡骸は土に還る。いつかそこに花が咲くだろう。

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