日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

撃つのは空砲ばかりなり

スパイ映画などで、敵を欺くときのシーンに欠かせないのが空砲と血糊だろう。ダァンと銃を撃ち相手は血を出して倒れる。しかし実弾はなく空砲のみで、流血は血糊だ。こうして敵に死んだと見せかけてあとで裏をかく。何度も再放送されている1960年代から70年のテレビドラマの「スパイ大作戦」。個性派俳優マーティン・ランドーの演じたローラン・ハント役の見せ場は空砲と変装で相手の裏をかく、なかなか面白いキャラクターだった。ケーリー・グラント演ずるヒッチコックの映画「北北西に進路を取れ」の後半、ラシュモア山でのシーンにも相手を欺く目的で空砲は出てくる。しかしこれまたマーティン・ランドー演ずる敵方はそれを見抜く。手に汗を握ったものだ。

子供の頃空砲とは何だろうと思った。火薬の入った薬莢に実弾を詰めなければ確かにそれを撃鉄で撃っても爆発すれど弾は飛ばない。そういう事か、と理解したのはやはり何かの映画だろう。また何処かの博物館でブローニングM2の12.7㎜の空薬莢を見た時は、これか、としげしげと眺めたのだった。

空砲を打つ、というのは空しい事をする、という意味があると思うのは自分だけだろうか。いや、野球で四番がホームランを放ってもその試合に負けたなら、彼の飛球はスポーツ新聞では空砲と表現されるだろう。

最近、空砲ばかりだ。折角の休日だから、あれこれやろう、と考える。小さなこともあれば、山歩きの時もあるしサイクリングの時もある。明日は山に出かけるね、と妻にも言う。しかし当日の朝、目は覚めても体が動かない。だるい、虚脱感、急にめんどくさくなる。結果、だらだらする。そして実際その日の終わりには、ああ、結局何もしなかった。自分の一日が終わってしまった、まったく無駄な日だった。そうだ、昨日から空砲ばかり撃っている。そう後悔する。

病気をしてから自分の体については全てが変わってしまった。気合と実際には大きな差が産まれた。唯一気合を実現させるとしたら他の人を巻き込む事だった。友人と供にサイクリング、供に登山。するとだらけるわけにもいかないのだった。予定があれば行かざるを得ない。そこまで追い込むのだった。

登山もサイクリングも、これまでは基本的に一人でやる「旅」だった。ふらりと、気ままに出かけるのが好きだった。最近はそんな訳で友人に同行を戴くことが増えた。特に登山だと、地形図の等高線を眺めてその地形を想像する。この急斜面を一人で歩くのか、となんだか不意に恐ろしく感じるようになった。これは全く想像していなかった変化だった。山は弱気になって挑んだのでは良い結果はない。

どうしてこうなったのだろうかと思う。今でも服用している脳の痙攣防止の薬が影響しているのか、病を境に絶対的な体力とバランス感覚を失い、いまだにリカバリーしない。それが脳にメスを入れた影響なのかも、放射線治療の影響なのかも分からない。ネットで見ると、不規則な生活、自律神経の乱れ、色々な単語が出てくる。しかし仕事で体を動かし始めるとそこそこ快調になる。

まだまだ楽しみに溢れたこれからの生活を過ごすはずなのだ。朝にウォーキング、汗をかいてシャワーを浴びる。たっぷり食べる。するとだるさは飛んでいくようにも思える。しかしその一歩が出ずに甘んずる日も多い。毎月採血する血液データにも、血圧にも異常はないのだから気にする必要もないはずだ。

何かをやりたいという気力は失っていない。やりたいこともたくさんある。動かぬは体のみ。「何事も小さく始めて、失敗を恐れない」そんな言葉をモットーとしているがどうも大物撃ちを目指してしまう。そうならぬようせめていつまでに何をやるという計画を立てよう。

情けないかな目下撃つのは空砲ばかり。しかし自分にはそれで欺く相手もいないのだ。今度こそ実弾を入れようと思っている。

薬莢ばかりばらまいても仕方ない。サンダース軍曹はトミーガンを確実に連射していたのに。