日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

二台の車

全く不思議だと思う。自分と妻の間に生まれた子供は半分自分で半分は妻。しかしそれは受精卵の話であとは自らが細胞分裂を続け十ケ月後に「オギャア」と世に出てくる。そこからその子は母と父を最も重要な影響を与える因子として成長していく。ある時は母に似てある時は父の生き写しとなる。それは外見ばかりでなく、その子の嗜好や思考にも及ぶ。

二人の娘がいる。自分には数えられない程悪い点があり、少しだけ良い点もあるかもしれない。カードの赤が良い点、黒が悪い点とする。すると二人にはそれぞれハートとクラブが、ダイヤとスペードが遺伝している。赤と黒は二分され、自分の醜さも、そして僅かに感じる憎めない点が違う形で二人には見られる。

子供の頃は健康な成長を願い、僕はやはり安定した生活を送り平穏な家庭を築いて欲しいと思った。その安定した生活も平穏な家庭も価値観が多様化した今では何が正解なのかは分からない。はなだは古典主義的概念を無意識に与えていたのかもしれない。それは自分の反省でもある。

今でも二人を前にすると場面はそれぞれ違うが、ああ、このものの言い方、解釈の仕方、感じ方、すべて自分と同じだなと思う。何で似てしまったのだろう、と苦笑ですむ時もあれば気の毒に思う事もある。謝りたくなることも多い。

アウトドアが好きな自分は昔から乗る車は一択だ。必要に迫られて違う車にも乗ったが所詮好みではない。結局同じ車種に帰ってきた。二人の娘は一人はアウトドアを、一人は音楽を好む。自分のA面とB面だった。そんな彼女が旦那様と決めて購入した車で高原にある我が家にやってきた。ディーラで午前中に納車してもらいその足で来たというのだから驚いた。僕は思わず苦笑してしまった。もっと使い勝手の良い車もあろうに、申し訳ないと思うのだ。

娘は余程嬉しかったのだろう。自分の車と自分達の新車を並べて写真に収めて悦に入っているのだから。ああ困ったものだと思うが、同時に思う。似てくれて嬉しい、と。そう、広いこの世界の中に自分と妻の血をひく人間が二人いると思うとそれは奇蹟に思える。そんな二人に自身の良い点・悪い点が引き継がれて何が悪い。開き直るように少しだけそう思えるようになったのは、やはり娘たちがそれぞれの家庭を築き幸せそうにしているからだった。

娘夫婦は一晩を我が家で過ごし都会の街へと帰って行った。二台揃っていたはずの車はまた一台になってしまった。寂しいことなどあるはずもないのだが、去り行くテールランプは何故か滲む。そんなものだろう。

二台のジムニー。何故だろう、アウトドアに興味がないのにこの車を買ったのは?もっと使い勝手の良い車を選べばよいのに・・。しかし少しだけ嬉しい。