日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

XYZな日々

時々情けなく思う。椅子に座って下を向き気づくこともある。家内に指摘されて気づくこともある。後者は助かるが、前者は情けない話だ。

ああXYZだ。そう口に出る。XYZとは Examine Your Zipper。あんたのジッパー、チェックしなよ・・「チャック開いてるぞ」という俗語だ。

仕事でアメリカ人と付き合い始めたころ商談で訪問した相手のオフィス。「Hi、 XYZ」。そういわれた。え、と一瞬狐に包まれた。すると彼は笑いながらあえてゆっくりと発音してくれた。エクス・ワイ・ズィー。…エクザミン・ユア・ジッパァ と。アメリカ人は概して陽気で楽しい。こんなこともからりと冗談風にしてしまうのだから。

助かったとばかりチャックをその場で上げるのもみっともなかったが、相手にしてみれば組みしやすい相手と見たかその後の商談は相手のペースだったかもしれない。

中校生の頃、自分も指摘したことがある。古文のT先生は定年が近そうだったが授業中に時々脱線して、何かというと「私の憧れの八千草薫さんは・・・」と名調子を披露した。そんなときに先生のチャックが完璧に開いていることに気づいた。相手は先生だ。女学生も多い。しかし言うのが親切だろう。「先生、チャック!!」

おお、と少し慌てた先生はささっと直して何事もなく枕草子の解釈を始めるのだった。チャックが緩んでいたからを先生が組みしやすいこともなく、自分についた古文の評点は辛いものだった。いまも古文に接するとあの教室の光景が浮かんぶ。

自分自身これまで身なりに関心を払ったことはないがさすがにチャック締め忘れには注意してきた。しかし日常生活での全開状態は増えた。職場で用を足す。するとたいてい閉め忘れている。スーツ姿ではないのでシャツの裾はいつもズボンの外に、だからうまい具合に隠れるのか。いやそれは善意の解釈でやはりバレている。なんたって「チャックの緩いT先生」は生徒の中では有名人だった。

少し考え事と書き物でもするか、環境を変えて。とノートPCを手に近所のコーヒーショップに出かけた。カウンターの若い女性に注文をしてトイレに行った。なんとチャックを開ける必要はなかった。すでに「社会の窓」は全開だった。その前に行った病院での採尿の際に閉め忘れていたのだった。

T先生も好きで開けているわけではなかったろう。あの頃の彼と同じ年齢になって気づく。やったつもりでやっていない。何かをしようと思っていたが、それ自体を忘れている。習慣づけられていることでもそれが起こるのだから困ってしまう。加えてこんな考え方は無いだろうか。「いまさら恥も何もない。見えても構わんよ。誰も気にしないしああカッコ悪い人と思われるだけさ」

同年代でも女性は外出時には気を配るのに何故こんな体たらくか。いやそれは個人差だよ。と大部分の紳士のひんしゅくを買いそうだ。

人間なりふりに構わなくなるのは寂しい。それは社会という属性に触れていないという事だろうか。その証拠に家で着る服装はなんともぐうたらしたものだ。スゥエットで一日過ごすのはやめたい。最低限でも考えた服装をしたいところだ。しかしチャックのないズボンはないだろうか、などとこっそりと考えてしまう。スゥエット程度しかあるわけもない。もう少し自分にも価値があるぞ、と考えれば、XYZの発生頻度は減るだろう。

価値か。禿げオヤジの価値。いったい何があるのか。そういえば毎日、それを探しているのだったな、と気づくのだ。「社会の窓」を開けっ放しでいたら気づきかけた「何か」もそこから逃げてしまいそうだ。「戸締りは厳重に」そう交番の掲示板に書かれているではないか。XYZと呪文を唱えて過ごしていこう。

チャックくらいきちんと締めたいもの。なにかが逃げそうだ。XYZ、XYZと繰り返す日々。

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