日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

手のひらの魔法

だらりとしていた両手をさっと上げる。全楽器が音を出すポジションに着く。この一瞬は緊張感と期待が重なる時間。すでに開演ベルの前まで楽屋裏で気ままになっていた幾多の旋律で期待が渦巻いているのだから、ここで自分も緊張は頂点に達する。

緩く、柔らかく手を動かす。今日の曲は、ふわりとして何気なく、絹のような光沢で始まった。

ここは港町・横浜のコンサートホール。しかし艶があり豊かな旋律はたちどころに自分を中世の面影を色濃く残すウィーンに運んでくれる。

ワルツは舞曲。目を閉じれば着飾った男女がゆっくりと優雅に踊っている。いつしか自分もゆっくりと時に大きく身が動いていた。隣席に人がいないのが幸いだった。最期の大きな優雅に揺れるフレーズでは、最前列の楽団員がさっと何かを指揮者に手渡した。ビールの入った大ジョッキだった。指揮者はそれをタクトの代わりに優雅に振る。素敵なワルツはフィナーレを迎える。まるでウィーンの路地裏にあるビアホールで皆が躍っているような素敵な演出だった。

二曲目のマーラーの歌曲。あまり得意ではない作曲家だが目をつむって聴いていると、小さな歌曲でも感情の動きが渦巻き、ソリストの美しい声に不思議な世界に引きずり込まされそうになった。ああ危ない、これがマーラーの魔力なのだろうか。

ラストの曲は一曲目と並び今回の演奏会の目玉だった。オーケストラにオルガンと4手のピアノが入る。大構成の曲だった。フランス音楽らしく音には色があり、豊かな色彩を放ちながら自由に飛翔する。しかし終楽章で巨大なオルガンの全奏に続きフーガが堅牢に構築されていくと、自分の心は怪しく乱れ、感動の汗が流れ、心臓は早鐘を打つ。畳みかけるようなシンバルに自分の体の芯が激しく揺り動かされてしまう。トゥッティは力強く響き渡り、震えた。

この曲では指揮者はタクトを持たずに手のひらを自由に動かしながら、音の綾をオーケストラから引き出していた。そして踊るように、時には体中のエネルギーを一気に爆発させるように、指揮をしている。

初めて、井上道義の指揮姿を見たのは何時だろう。テレビ番組で、若き指揮者が颯爽とバッハのピアノ協奏曲第3番を振っていたのだった。勢いがありオーケストラを引っ張りながらも各声部が明確だった。大きくタクトを振る姿の下で、聞き馴れてた協奏曲は全く違う音楽に聞こえたことをよく覚えている。…凄い指揮者だな。素直にそう思ったのだった。

何故か聞く機会はなかったが、同氏があと数年できっぱり引退するというニュースが出ていた。引退の時点でもまだ70歳代のはずなのに。

これはやばいな、今しか見ることが出来ないのか。そう思って購入したチケットだった。

演奏は終了。カーテンコールに包まれて何度も指揮者が出入りしてオーケストラの各パートやソリストを讃える。いつものシーンが続く。今日は違った。何度かの恒例のあと、さっと指揮台に立ち、拍手を制して観客席に向かってフランクにこう言ったのだった。

「どうだった、今日は楽しめた?」
「音楽って最高でしょう」
「今日は、本物ではないけど、ビールで乾杯できたね」
「皆さん、ありがとう。このホールも、このオーケストラも、これからまだまだ楽しめるよ、皆で音楽を育てていこうね」

軽く一礼してマエストロはさっと舞台袖に去って行った。

指揮台から指揮者が挨拶するのはウィーンフィルニューイヤーコンサートだけだと思っていた。齢70をはるかに超えた若々しい今日のマエストロの声は、オーケストラの楽器に負ける事もなくホール中に響き渡り、満場の拍手がそれを包んだ。なんという素敵な破天荒さだろう。初めてテレビで見た時に何に惹かれたのかと思えば、それはその型破りな指揮姿だったと今日わかった。そしてそれがオーケストラを、ソリストを完全燃焼させるのだな、と知った。

何処かのインタビューでご本人が語っていた。「自分が演奏会に拘るのは一期一会だから。一回性のもの。今日の演奏は明日の演奏でもない」と。今日観客に向けて語られた言葉はその通りだった。

エストロの手のひらが魔法のように舞い、オーケストラから一回限りの素晴らしい音色を紡ぎ出す。又聴く機会があるのだろうか。しかし無くとも心の中に素晴らしい今日の感動が残った。それで、いいのではないか。


NHK交響楽団演奏会 2022年11月3日
指揮 井上道義
カウンターテナー 藤木大地
演奏 NHK交響楽団
みなとみらいホール(横浜)

- ヨハン・シュトラウス2世作 ワルツ「南国のバラ」
- マーラー作 「リュッケルトによる五つの唄」
- サン・サーンス作 「交響曲第3番「オルガン付き」」

サン・サーンスの交響曲3番はオーケストラにピアノ、オルガンという大編成。オルガン奏者は指揮者に背を向ける事になるが、どうやって指揮を見るのだろうかと興味があった。今回は鍵盤横のタブレット画面を見ていたようだ。しかし昔はそんなものもなく、やはり間合いと呼吸なのだろう。

長く憧れていた井上道義氏の演奏会だった。激しい燃焼があった。

動画サイトへのリンク

南国のバラ (ズビン・メータ指揮、 ウィーンフィル) https://www.youtube.com/watch?v=Y5aCOdllMLQ
リュッケルトによる五つの唄 (リッカルド・ムーティ指揮、クリスタ・ルートヴィッヒ独唱、ウィーンフィルhttps://www.youtube.com/watch?v=QfDc3yaTMC8
交響曲3番 オルガン付き (パーヴォ・ヤルヴィ指揮、パリ管弦楽団https://www.youtube.com/watch?v=ZWCZq33BrOo