昼飯にタンメンを作ろうとしていた。
我が家のタンメンは賞味期限切れの野菜の処理を兼ねるので何でも入ってしまう。キクラゲなどのあれば良いな、という具も、棚や冷蔵庫に残っていない限りは逆に入らない。モヤシばかりはそれがないと成立しないので都度買っておく。
スーパーで赤札の付いたさやえんどうがあったので買ってみた。早速タンメンの具材になった。
さやえんどうのヘタと筋を取りながら、ふと笑ってしまった。ああ、こんな歌があったなと。そして気づかずに口ずさんでいた。
自分も、爪を立てて筋を取っている。椅子には座っていないが。
さやが私の心なら
豆は別れた男たち
何という秀逸な歌詞だろう。ユーミンこと荒井由実がコバルトアワーを世に出したのは1975年。歌はその前に書いたのなら10代のときに作った事になる。
別れた男たちは最後は煮込まれて形もなくなる。チャイニーズスープという一風変わった題名と少しケイジャン風なアレンジ。すぐには良さが分からなかったがそのうち好きなナンバーになっていた。
ユーミンは自著でも他著でも若き日の頃を書いた書物や、様々な考察本が多い。これらを読めば彼女の送った多感な青春時代のことはよくわかる。
しかしそれはやはり表面的なことで、あるいは赤裸々に書いてあったとしても彼女の心の中は本人しかわからないだろう。
豆が別れた男たち、か。みんな煮込んで今夜のおかず、か。好きな貴方のためのチャイニーズスープ、か。思われた貴方もさぞや幸せなのだろう。感性の新鮮さには舌を巻いてしまう。
年齢を経ると感受性の老化が始めるとも聞くが本当だろうか? 心を持った人間ならば感受性は必ず消えないはずだ。ただ、心を動かすかどうかの「しきい値」が高くなるだけの事ではないか。子供にはそんな「しきい値」は無いのだろう。
生きていく以上、様々な事象に感動したい。色々な事に心を動かされ、時に泣き、時に大きく笑いたい。いつまでも瑞々しくありたいという事だ。10代の感性がベストだろうか?違うと思う。何十年もの年輪が、自分の顔に、体に、そして脳に重なっている。様々な経験がその中に埋没している。ボタン一つで、多くが目覚めるに違いない。それが歳を取るという事だろう。
幸いに出来上がったタンメンには、単調なもやしの中に、さやえんどうの緑色が綺麗だった。歌の様に煮込まれて溶けてはいなかった。サクサクとしたしっかりした触感もあった。
まだまだ、自分も捨てたものではないな。次回のタンメンには、また違う野菜を入れてみよう。何か素敵なことを感じるかもしれないから。
動画サイトから。オリジナルアルバムとはアレンジも違うが、風化していない。
https://www.youtube.com/watch?v=2XMranZCg9w