日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

脳腫瘍・悪性リンパ腫治療記(25)「血液内科にて化学療法(8)」病院を去る日

第4と第5。残り2クールとなった。あと4週間か。それでRMPV療法は終わりだ。その後は放射線と大量キロサイド療法。

第2クールで炎症をおこし発熱の元となった静脈カテーテルを再度挿入する。2度目の血管造影室は緊張感もなかった。もう第3クールでの導尿感の苦しみは繰り返したくない。2時間おきに目を覚まし採尿するその辛さと、導尿管挿入失敗時の不快感、どちらをとるか。導尿管は止めて、メソトレキセートの点滴のあとは都度都度排尿で耐えるしかないと、腹をくくった。

オンコビンの副作用である末梢神経障害がますますひどくなり、手の指先感覚はなくなり箸を持つのにも不愉快になってきた。これは本当にもとに戻るのだろうか? まあいい、楽器はなんとか弾けるだろう。弾けなくなったら、それを受け入れるしかない。

それらしい抗がん剤の副作用は末梢神経障害以外はあまり出てこない。しかし毎日の血液検査の結果では典型的な副作用として確実に白血球が減少してきた。感染症に弱くなるので、口中衛生にケアするよう、また、口内炎なども不用意に作らぬように、と注意される。クールの合間を見て口腔外科の診察も並行する。口の中は雑菌の巣という。白血球減少に対する対策としてはジーラスタの皮下注射。適切な白血球レベルに戻るまで何度か繰り返された。

自分のリンパ腫は視神経に転移することが多いという。視野狭窄はこの病の発症の際の分かりやすい例で、実際に自分もそれを経験したから嫌が上にでも神経質になってしまう。視神経は入院開始時に眼底検査を行い異常なきを確認したが、なんとなく視野の欠落を覚えたので念の為に視野検査も行われた。

病になるとやはり気弱にもなる。ちょっとした異変に過剰に反応してしまうのだろう。実はどうということもなかったのだ。

こうして主治医が司令塔となり各課の診療をテキパキ回せる仕組みは良いものだ。総合病院に入院しているからこそ可能なチーム医療なのだろう。加え、主治医の話では、治療が一人だけの判断でミスリードしないように、何人かの医師によるチームカンファレンスを実行してから物事を進めるという。良い病院に入院できたものだ。主治医の適切な判断で専門家の診断を仰ぎ、2クール4週間は無事に終わりを迎える。最後の一クールは、いつ終わるかと指折り数える状態だった。

病室での向かいの入院者の方も、先日治療を終え部屋を畳んでいかれた。その日には奥様が見えてお辞儀を交わした。お互いのつらいときに、世間話をしてくれた彼がいなくなるのは寂しい。そんな彼もまだこの先治療が進むのかもしれないが、これで、ずっと気にされていた公園のボランティア掃除ができる、と嬉しそうだった。とても眩しい思いで、白髪のご夫婦を見送った。 隣の方、はす向かいの方、何度入れ替わったことだろう。幸せにご退院された方もいれば、そうでなく沈黙の退室もあった。これが病棟の日常だよな、と改めてかみしめるのだった。

主治医が最後まで迷っていたのはこれに続く放射線治療を入院でこなすのか通院でこなすのか?だった。もう入院は充分だ。主治医は放射線照射後のフラつきなどを気にしているという。しかし自分の年齢と体力を見て、通いでやりますか、と提案していただき、ありがたくそれを受けた。

自分にも待っていた日がやってきた。病棟を去る日はすっかり春めいた、いや初夏の訪れさえ感じられる日だった。今年は梅も桜も7階のデイルームからその芽生えとほころびを毎日遠めに眺めていただけだった。季節感なく春を迎えた。気づけば病院の庭木は新緑で満ちている。大切なものを亡くしたような気もした。があの冬の寒い日に脳外科で術後の抜管で目覚めた時に、そして病名と統計的な一般余命を告げられた時に思ったではないか。「ああ、まずは長らえたんだな。これからはお釣りの人生だよな。もう好きなことをして後悔なきように過ごすだけだな」

旅行用のトランクと登山用ザックへの荷造りは済ませていた。病室からデイルームに荷物を運ぶ。病室が懐かしくなり、何度も戻っては昨夜までの自分の「我が家」を振り返るのだ。ああここで3カ月弱、さまざまな山と谷を経験した。できればこの空間ごと持って行きたい、いや、別荘のように、ここに時折来たい、そんな愛着すら感じたのは何故だろう。喜びと悲しみが同居する部屋にはいつも西日が当たり、丹沢が、北岳がすっきり望めた。

デイルームに迎えに来てくれていた妻が、見慣れたはずの顔なのに、とても美しく思えた。突然脳腫瘍で倒れ救急搬送、摘出手術から悪性リンパ腫への治療を通じて、大きな心配をかけっぱなしだったのだ。お世話になった看護師さんたちが挨拶に来てくれた。主治医さんとはこれからも外来で接するが、病棟付きの彼女達とはもう会う事もないのだろう。クラスメイトと別れるように、寂しかった。看護師さんそれぞれの仕事に対する姿勢やモチベーションには感動したし、何よりも彼女達は、完璧なプロフェッショナルだった。

世はゴールデンウィークに入る直前。その連休が終わってから、いよいよ放射線だ。なに、ここまで苦しい治療を続けてきた。これから何だって、いかようにもなるだろう。

まるで卒業式のようだ。母校、いや、病院の建物が、頼もしくもあり、懐かしくもあり。何度も振り返るが、妻に促されタクシーに乗った。

病名に絶望し、夢に励まされ、友に助けられた。隣人たちも皆山と谷を経て、幸福に、そして不本意にこの部屋を後にした。カーテンで仕切られるこの狭い空間が間違えなく自分の「我が家だった。」