日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

六地蔵に何を想う

信州の名山・高妻山に登ったのは6月だった。雪はあまりないだろう、そんな思いで雪に対する備えもなく入山したのだ。昔から踏まれているルートはいったん戸隠山からの稜線にとりついて一不動の避難小屋に出る。そこから稜線を北北東に進み五地蔵山で90度向きを変え西北西に登っていくものだ。しかしなかなかの長丁場という事もあってか長野市の手により新しい登山道、牧場から直接五地蔵山まで登る短いルートが開かれた。所要時間から今ではこちらのほうが主流かもしれない。自分もその新道を選んだ。ブナ林の中を心地よく登っていくルート、六月のブナの林の美しさを表す形容詞を自分は持ち合わせないが、空気を通じて自分自身が緑色に浄化される気がした。体が光合成をしているという気持ちだった。

五地蔵山に出て初めて前方に高い、高妻の山頂を見ることになる。一不動と言い、五地蔵といい、襟を正したくなるような、抹香臭い名前が続く。この新道はいきなり五地蔵まで端折ってしまうが、昔ながらの路を辿るとなれば、一不動、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵、六弥勒、七薬師、八観世音、九勢至、十阿弥陀 と丁目石のような仏教ゆかりの地名を登っていく事になる。十の阿弥陀如来で満願成就、山頂だ。

八合目ともいえる八観世音にきて足が止まった。ピラミッドのような山頂の尖り具合が見事であるがその下僅か数十メートルが雪の壁だった。よく見ると豆粒がいくつもその雪壁についている。人だ。やや進んでもその人影は一歩も進んでいないように見える。九勢至に至り、状況が分かった。余りの雪の斜面に皆足がすくんで、前にも後ろにも進めなくなっているのだった。

少しだけその雪の大斜面に足を入れてみた。これは無理だ。10本爪以上のアイゼンとピッケルが必要だった。6月の2300m峰を甘く見ていたのだ。斜面の中ほどを下りてきたピッケル・アイゼン姿の男性が目の前で足を取られ、「あーっ」と声を出して数十メートル滑落し、視界から消えた。あの声を忘れることはできない。

結局雪田の登攀を諦め回れ右をしたが、後続のパーティがひょいひょい残雪の端にあるネマガリダケをつかみながら登るのを見て、自分もそれに続き強引に攀じた。短い難所を超えるとそこはもう山頂の一角で、まさに阿弥陀様が待っていた。口から飛び出そうな心臓をおさえながら、そんなありがたい思いだった。

実態は単に季節を読み間違えた甘さ・気の緩みに起因するものではあっても、これは横着して五地蔵まで端折ったからバチが当たったのか、きちんと一不動から登れば良かったのか。一瞬そんなことに考えが及んだのだった。この難路を修験道ととらえ、合目ごとに宗教的アイコンを置いた昔の人の気持ちがわかるような気がしたのだ。

以来、道祖神や道端のお地蔵様を見る度に足が止まり、考えをめぐらすことが増えた。何故ここに道祖神がいるのか。なぜお地蔵さまは複数でいることが多いのか・・。

地域地域の歴史や習俗によるのだろうか。しかし、長い年月の風化によりその顔の判別もつかなくなった石仏とはいえ、えてして赤いおべべを着ていたり、赤い毛糸の編帽を被っていたりと、地元の人の慈愛と、深いつながりを感じさせる。

まとまった石仏は六体のお地蔵様が多い。古い街道筋でも、寺の参道でも見かける。何故六体なのか。祖先の菩提寺へお参りに行ったついでにその住職さんに聞いてみた。これは六道と呼ばれるもの。天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道と申します。お地蔵さまはそのそれぞれで人間の苦悩を救済して下さるのです。そんな説明だった。

お地蔵様をよく見ると、柔和で、それぞれの表情も微妙に異なる。いずれも優しさを感じさせる顔ばかりだ。自分が高妻山で滑落せずにすんだのも、病を経て今に至っているのも、誰かが救済してくださっていると考えると、色々なことに感謝が及ぶ。

今度野を歩き、地元から素朴に愛されてきたお地蔵様を見るならば、自分はゆっくりとお礼を言う事だろう。更にはこれからもお世話になるだろう六体の尊顔を、ゆっくり拝見したいと思う。そして六体以外の全てのものに、謝意と、朝晩の挨拶くらいはしなくては、と思うのだ。何かいいことがまた、ありますように。

路肩や寺の六体のお地蔵さま。謝意と挨拶をしていこうと思う。