明日はやっていますか?
ランチやってません
どうも会話がかみ合わなかった。電話の相手は韓国料理店だった。焼き肉屋ではない。どうやら明日はやっている。ただ夜だけの様だ。ネットでは昼の営業もあると言うが最新状況は反映されないのだろう。
焼肉ではなく韓国料理を始めて食べたのはアメリカ・カリフォルニアはシリコンバレーだった。ローレンス・エクスプレスウェイとエル・カミノ・リアル通りが交差するあたりはちょっとしたコリア・タウンだった。この辺り一帯はシリコンバレーの名の通りコンピュータ関連のIT産業が集まっていた。アップルコンピュータ、ゼロックス、IBM、HPなどきりがない。マイクロソフトはウィンドウズ95を世に出したころでこれからだった。もちろんグーグルやフェイスブックなどはまだその地には萌芽の兆しすら無かった。今ではGAFAの生誕の街ともいえる。
そんな会社の一つに自分が勤務していた会社は自社製品をOEMで売っていた。営業担当者の自分も又、足しげく通った。通りの名前からショッピングモールのありか迄、はてはタコベルやジャックインザボックス、そして借りもしないのにブロックバスタービデオの店舗の場所まで覚えていた。サンフランシスコ空港からそこまで小一時間、レンタカーを運転するのは自分の仕事だったから覚えてしまうのだった。
上司と出張に行くといつも宿はローレンスだった。彼にはお気に入りの韓国料理店があるのだった。直ぐに彼はまずはこう言う。ブリング・オール・カインド・オブ・キムチ、と。するとキムチや様々な小皿がずらっと出てくる。小魚もあるし必ずしも辛い物ばかりでもない。そしてサムギョプサルとサンチュを頼み辛い味噌をつけて美味しそうに食べるのだった。ビールはやはりHITEだった。いつかこの店の小母さんとも顔見知りになってしまった。何処にでもいそうな韓国人のオモニだった。
韓国に初めて行ったのは父親が定年を迎えたお祝いだったので自分も三十代だった。手軽に行けたのだった。ソウルの街並みは日本に近いと思った。南大門市場のような狭い雑踏は流石に当時の日本にはもう無かったがどこか懐かしさがあった。四十歳過ぎに赴任したパリでも韓国料理は自分達には手頃で気楽だった。そこではいつもサムギョプサルを食べてチャプチェで満腹だった。安くて美味かった。いつもにこやかで色白なオモニがサムギョプサルを持ってきてくれた。
仕事で行くようになったのは五十歳を過ぎてからだった。そこは空港から北に一時間あたりの場所で、北緯三十八度線に向かっていくのだからあまり良い気はしなかった。商談はいつも厳しかった。帰国便に間に合うようにと、それでも料理店に連れて行った頂いた。キムチ全種持ってきてください、などとあの上司のように言わなくとも、ずらりとテーブルに各種のキムチが並ぶのだった。これが韓国式と知った。先方の責任者は仕事の都合か少し遅れて来た。誰もが大人しく座って彼の到着を待っていた。そして彼が入ってくると誰もが姿勢を正した。ずらりと並んだ料理にも酒にも誰も手を付けない。目上の彼が手を付けて初めて食卓が動き出す。誰しも酒を飲むときは少し体をねじり後ろ向きになるのだった。失礼に当たらぬように。目上を尊ぶという儒教の精神がここまで根付いているのか、と感心した。何度か通ったが当社の製品は採用されなかった。店を出るとチョゴリを着たオモニがタクシーが来たと案内をしてくれるのだった。
気になっていた近所の韓国料理店に行った。焼き肉店ではない。韓国料理店に行きたっかったのは、シリコンヴァレーでパリ15区でそしてソウルで食べた韓国料理が忘れられなかったからだ。いや、柔和なオモニの表情が見たかったからだろう。嬉しい事にサムギョプサルがあった。何処かで食べたまだ生きているタコの足をぶった切りゴマ油と塩で食べる料理はメニューには無かったが、言えば作ってくれそうに思えた。ただ海なし県のこの地で鮮度の良い生きたタコは手に入らないだろう。オモニは先の電話で想像していた通りの、やはりソウルの下町にでもいそうな小母さんだった。丁寧にサムギョプサルの食べ方を教えてくれた。焼きあがった三枚肉はごま油と塩につけます。そこに一緒に焼いていたニンニクを味噌につけて載せます。更にネギの千切り辛味和えを乗せてサンチュで巻いて一口で食べます。流暢な日本語ではないがよく通じた。そう言えばパリの韓国料理店でもやはりお母さんは食べ方を教えてくれた。
家内と自分はまるで井之頭五郎のようにただひたすら肉を食べ米を食べた。皿やお椀を持ち上げるのは韓国では悪いマナーとされるが、美味い食事なら本能的にそうなる。しかしオモニはニコニコして何も言わなかった。素敵なオモニがここにも居たのだった。自分はもう少し韓国とそこで感じた自分の気持ちを話したかったのだが次のお客様が見えた。また今度話を聞かせてくださいね、とオモニは言うのだった。
僕達はオモニの店を後にした。