日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

基礎工事とミルフィーユ

ふとしたことから基礎工事を見学した。基礎工事とは家の土台の工事だ。どんな風にやるのだろうと興味があった。そこはとある高原だった。簡単に言えばハウスメーカーの指定通りに作るのだが相手は土なのでなかなか精密にもできないだろう。

始めに土地の境界杭を見出す。よほどの変形の土地でなければそれは4本だ。そこから図面通りに家の区画の四隅に杭を打ち、そこに縄を張る。縄張りと言われる。そこに家が建つわけだ。こんなに小さかったけ?と思うと縄張りの時は小さく思えますよ、とはハウスメーカーだった。そこからは測量が入りあとはプロの土建屋さんの仕事だった。

基礎には布基礎とベタ基礎がある。敷地の四周と主だった箇所に基礎を打ちコンクリートを流し土のままの場所には防湿シートをかぶせその上からコンクリートで固めるのが布基礎。敷地全体に基礎を打ち鉄筋を張り巡らせるのがベタ基礎。そんな理解をしている。もちろんベタ基礎のほうが強度は確保できるがその分値段も張る。布かベタかは土壌との相性だった。その場所は布基礎のようだった。寒冷地には凍結深度がある。70センチほど土地を掘っていたのはそれより浅いと地面が凍った時に盛り上がり基礎が壊れる可能性があるからという。そんな場所には布基礎が良いという話だった。

たまたま見たときはショベルカーが入って土を掘っていた。70センチと言えば自分の半身に近い。作業の休止時間中に掘られたくぼ地の中に入ってみたら子供の時のプール入水のように感じた。またショベルカーでえぐられた土地の地層面をじっくり見たのはNHKのテレビ番組「ブラタモリ」の影響だろうか。それはチョコレートケーキをナイフで切ったような地面で、顕著な地層の堆積は見られなかった。分厚い層だった。次工程は基礎部分を木枠で囲んで固めてセメントを流し込む。空いた場所は砂利を入れる。鉄道レールのバラストのようなもんだろう。そして布張り、セメント流しだった。

我が家の近所を歩くと年老いて主を失った廃屋がめっきりと多くなった。団塊の世代の親御さんの世代が多く住んでいたのだった。そこはおしなべて均されて新しく基礎が打たれている。そこに家が建っていく。ツーバイフォーのプレカットボードを組み立てていく家が多くなったので驚くほど短い時間で家が建っていく。

廃屋の主は激動の昭和を勤労と節約という一言で通り過ぎて家を残した。その息子娘の世代も老境をぐんぐん進んでいる。その次の世代は子育ての真っ盛りになる。そんな歴史の中に壊された家々は家族史という夢の名残だろう。去りゆくものは寂しい。そこには間違えなく汗と努力と笑いが在った。しかし新しく建った家には新しい若い家族が越してきて新たな笑いと営みがくる。人間の体細胞が毎日新しいものに入れ替わるかのように、地球上の豆粒以下の一点も常に新しくなっているのだった。

すべては土に還っていく。こうして掘り返された地面を見て、仮にここに家が建ち新しい生活が営まれるにせよ、それもいつかは土になるのだな、と思う。すると何のために人は生きているのだろうか、というひどく原始的な質問に行き当たる。簡単ではない答えは哲学の芽生えだろう。だからこそある種の発想の「コペルニクス的転回」が必要になる。何のために生きる?のではなく楽しむために生きるのだ、そう考えを根本から変えるのだ。ただの炭素と水の化合物にすぎない人類だから結局は土に戻る運命だ。だがその転回によってそれからの時間は悩みではなく楽しみに支配される。それでいいではないか。

チョコレートケーキの断面のようだった土地も、その面を微細に見れば大好きなフランス菓子のミルフィーユのようなのかもしれない。ミルは千、フィーユは層だ。千の層があの素敵なケーキの名前の由来だ。そんな風に長い時間をかけて積み重ねがあったのだろう。地面を掘るという基礎工事はそんな思いを自分に与えてくれた。

基礎工事現場でミルフィーユに出会った。全てはそんな層の一つになっていく。最後に残るのは何か。いやそんなネガティブな考えはコペルニクス的転回で忘れたはずだ。