本を読む少女
散歩をしていた犬の足がふと止まった。テンションのかかっていたリードが緩む。
「前方注意」、そうでも言いたそうに彼は僕を振り返る。
僕はいつも通りに好きな音楽をスマホで聞きながら歩いているので気づくのが遅れた。
この時間帯は小中学の登校時間帯でもある。
学校指定の運動着を羽織った一人の女子中学生が両手を本に添え、それを読みながら道路を歩いて来るのだった。薪束こそ背負っていないけれど、ああ二宮尊徳の銅像に近いな、と思わず頭に浮かぶ。
やや大きめの本で文庫本ではない。なんのジャンルかもわからない。友情を描いた本かな? 恋愛小説かな? 古今の名作かな? 熱中して手にしているものがスマホでもゲーム機でもなくただの本であることに新鮮で小さな驚愕を覚え、嬉しかった。
彼女は立ち止まっている犬と僕に気づいて、横にずれて、ペースを落とすことなく絶えず上から下へ視線を短く動かしながらゆっくりと歩き去る。過ぎ去った後には秋の朝風の匂いが車道を流れていた。
君は知っているんだね。本の持つ素晴らしさを。本のページを開き活字の世界に入り込んだならそこから世界が無限に広がるという事を。そしてそのためには時間が惜しいことを。
僕もね、範囲は狭かったけど熱中した時期があったよ。もう40~50年も昔の話。小学生の頃は、戦記物や怪人二十面相シリーズ。そして、中学・高校時代は、当時言われていた第三の新人やその後の世代。大学生になってからは少し時代を遡ったりもした。
その頃の読書が、今の自分に何をもたらしているかわからないよ。今は趣味の雑誌や実用書しか手にしないし、それすらもネットで必要な情報を得る時代になったね。でも今でもたまにあるな。黄ばんだ文庫本をときおり書棚から取り出すことは。それはその作家さんの独自の言い回しや懐かしい単語に触れたい時だと思う。そして書を手にすると、その中の世界に没入していくよ。
君はまだ若くていいね。歩く暇を惜しんで本を読む君。どうか沢山読んで美しい日本語を本から得てほしい。自分なりの感性を磨いてほしい。
そう思い彼女の背中を押すつもりで、ゆっくり歩き去る女子中学生を見送った。あんなにゆっくり歩いて遅刻にならなければいいけれど。途中バス通りは交通量多いし、渡るときは気を付けてほしいな。
「・・ねえ、行こうよ」と犬がリードを引っ張った。
そうだったね、君はまだ朝食があるから、道草厳禁だ。
そこからはさして離れていない家まで、彼が僕を引っ張り、僕は家についたら何の本を開こうか、と考える。
窓を少し開けたなら、角が尖り始めた空気が体を包みその香りが鼻腔を打つだろう。そんな中「本を読む少女」が教えてくれた素敵なひと時を味わおうと思う。
(2021年10月7日・記)