日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

埃まみれのブラッキー

ブラッキーと言えばギター好きならははぁと思うだろう。1977年の録音「スローハンド」のジャケット写真にはネックしか写っていない。ギターに愛称をつけるギタリストがいる。ミカウバーにマルコムはキース・リチャーズ。ルシールはBBキング。そして・・。ブラッキーとくればエリック・クラプトン。そんな有名な一本にはロックやブルースが好きならため息が出るかもしれない。

ブラッキーとは黒のフェンダーストラトキャスター。自分は幸いにもこのギターの音をレコードやCDではなく生で聞いた記憶がある。武道館だった。クロスロードやホワイトルームといった60年代のナンバーから、いとしのレイラやコカインなどの70年代のナンバーを演奏していた。ブームとなったアンプラグドが発売される前だったのでエレクトリックサウンドだけのステージだった。スティーブ・ガッドとネイザン・イーストがリズムセクションだったと思う。

日本だけの分類だろうが、ジミー・ペイジジェフ・ベック、そしてエリック・クラプトンという英国のギタリスト三人を「三大ギタリスト」と呼んでいる。クラプトンはスローハンドと呼ばれているがそれは彼の手数が少ないからと聞いたことがある。が、1960年代の彼はトリオ編成の伝説のバンドでハードなインタープレイをしていた。ドラッグ漬けの60年代から70年代初頭を抜け出してからの彼はレイドバックして、渋く枯れたギタリストに、加え味のあるシンガーにもなっていた。彼のギターの音はとても深みがあり、確かに巧いな、と思った。綺麗なトーンだった。観客席から「カミサマ!」と声援が飛ぶほどだった。が当の本人は無口にギターを弾き歌う。時折照れくさそうにサンキューとだけ短く言うのだった。三大ギタリストの中で個人的には彼を聴く事が一番少なかったがそれでも80年代までのレコードはほぼ聞いていたし、ライブも何度も見た。いつもそっけないステージだったがギタープレイには惹かれるものがあった。ステージで見たブラッキーは一度だけだっただろう。あとは同じストラトでもカラフルな塗装を施したものだった。どの音も素晴らしかった。

娘が高校生になった時、部活動で軽音楽部に入りたいというのだった。彼女は小学生からピアノを弾いていたので当然キーボードだろうと思っていたが違うという。ベースは父親が弾いているし体に比べて大きいから嫌だという。ギターをやりたいようだった。

何でも子供の望みをかなえる甘くて親は情けない。しかし娘がエレキギターが欲しいというならこちらも喜んで楽器屋に行く始末だった。音楽趣味を応援するという点に関しては自分は情けない程にシュガー・ダディだった。彼女にはギターの好みの形も無いようでここは自分の好みを押し付けた。それはテレキャスターだった。キャンディレッドの国産の中古品があった。数万円だった。自分の月の小遣いをはたいて買った。ついでに娘がギターを始めるなら自分も、と思った。ギターを手にしたことは皆無に等しかった。そこで今度は古本屋がやっているハードオフの店で数千円で自分用のギターを買った。黒のストラトモデルは国産のセカンドブランド。ブラッキーもどきか。クラプトンのようになれるかな。

ギターは自分には難しかった。ベースの太い弦に慣れていたのでギターの細い弦は指に食い込み痛かった。そして娘も数か月でギターに飽きてしまった。挙句彼女は演劇部に転部していた。ギターが難しかったのか、メンバーの関係が難しかったのか。女子高生の世界は理解できなかったが深追いも出来なかった。二本のギターはすぐに埃をかぶってしまった。

自分はベースもまともに弾けないのにギターなどありえなかった。自分がプレイしているバンドのライブに向け五弦ベースが必要になり、娘のギターは下取りしてもらい僅かな資金となった。

断捨離で部屋の整理をしていたら埃まみれの「ブラッキーもどき」が棚の裏から出てきた。ひどい扱いをしたものだ、と綺麗に拭いてから再びセカンドハンドの店に持ち込んだ。当然だが数百円にしかならなかった。

今でもギターに憧れがある。それはブラッキーストラトではなく娘用に買ったテレキャスターだった。還暦の手習いで買ってみるか、と無意識に中古楽器サイトを見ている。その前にやることが沢山あるのに、見ている。ブラッキーは埃まみれになってしまったではないか、と声が聞こえ、自分はそのサイトを閉じた。ギターの形が罪深いのだと思う事にした。

結局まともに触れなかった。好きなテレキャスターではないから?違うだろう。しかしもう一度だけ今度こそテレキャスターを買って、手習いしたいものだとも思う。

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夢中な日々

昔から年賀状を出すのはいつも遅れていた。流石に越年は無かったが大晦日に出すこともあった。当時交際していた女性とは結婚を意識していた。彼女宛の年賀状はやはり元旦に到着してほしいものだがそれは晦日や大晦日に吐くセリフでもない。

例によって遅れてしまった。そこで僕は一計を案じた。彼女が住む街の集配業務をする郵便局本局まで直接持ち込もうと考えた。大晦日も暮れようとする日に家から三十分かけてバイクで直接本局窓口に一枚の年賀状を手渡しに行った。

久しぶりに羽田に行った。飛行場に用事があったのではなく川崎まで出たついでに一般道で通れる多摩川の最下流の橋を渡ろうと思ったのだ。そこからの東京湾羽田空港の風景を妻に見てもらいたいと思った。橋の手前は数年前に自動車工場が撤退しそこに最先端のオフィスビル群とホテルがある。そのホテルの一角は店内でもペット歓迎のカフェレストランだ。そこで二人と一匹でゆっくりとお昼を食べた。小洒落た雰囲気は日常を忘れさせてくれるし料理も美味しかった。

橋を渡り羽田に出た。空港と東京湾の作る広い光景が自分を幸せにしてくれる。環状八号線を用いて帰路に着いた。途中懐かしいあの郵便局があった。「そんな事あったんだよ、それだけ貴女に一生懸命だったのさ」。そう話すと「そうなの」とつれない返事だった。

夢中な日々は誰にもある。思い出せば恥ずかしくなるほどに懸命だった。今そんなエネルギーが自分にあるのか。

エネルギーとは自覚していないがやはり日々を無意識の中で懸命に過ごしている。ガンという二文字を前にして治療を終えたその日から自分は生まれ変わったのだと思うようにしている。家族のために自分は長生きしなくてはいけない。そのための仕組みを作ってきた病後の年月だった。年賀状はもう減らす方向にしている。そこで費やす時間は他に向ける。僕の夢中は違うベクトルを示すようになった。

力の目指す先は違えども、それで家族が幸せになるのなら、嬉しい。

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しばしの御機嫌よう・丹沢

ここら辺りだったかな、テントを張ったのは。鹿の気配が濃厚であまり寝付けない夜だった。いや、それとは別に水場のあるカヤトの峰でテントを張った事もあったな。風の強い夜で朝はグンと冷え込んだ。しかし下界が朝焼けに染まるさま、それは見事だった。

様々な風景を思い出す。昔の記憶をたどりながら歩く山だった。稜線に上がるまではヒノキの林を沢に沿って登る。道型が小さな雷光型になり一気に高さを稼ぐと稜線だった。ブナの林が心地よい。

やれやれ一汗も二汗もかかされた。呼吸は落ち着き、行動食の大福餅を口にして水を摂った。長い主脈縦走路だった。地味な上り下りが続くのも尾根歩きのいつもの風景だ。あれほど多かった鹿の糞はしかし殆んど見ることはなかった。

気づいた。鹿よけ柵が多く設置されていたのだ。この山域は鹿が多く、ある時期から一気に増えた。バス停にからきつい上りで至る主脈南端のピークなどは奈良の若草山公園の如しだった。鹿による植生破壊が言われだしたのもその頃だった。地球環境保護エコロジーという概念が一般化された時代だ。。

鹿は同時に、蛭を運んできた。これが自分をこの山域から遠ざけた最大の理由だった。前衛の山で蛭に喰われた。靴下の編みの目から侵入し巨大化している姿は不気味で取っても血は止まらない。無害でも気持ち悪い。

当時はなかった木道も随所にあり、足は進む。カラマツの広場で富士を大きく見たはずだったが今日は叶わなかった。ただカラマツがこんなに大きかったのか、それが定かではなかった。二十年ぶりなのだ。仕方もなかった。

木道の整備は行き届き、最後の急登にはたっぷりと絞られた。山域の最高峰の山頂が指呼の間となった。

今夜はここの山小屋に泊まる。流石に海抜1600メートルを超えるとこの季節のこの時間は冷える。小屋に入って一息ついた。

受付中に小屋番がストーブに着火した。寄り道をしていた友も到着。足の遅い自分が先行していたのだった。あてがわれた屋根裏の小広い板敷に布団を敷いて暖かい夕食を待った。

翌日も全く長い道だった。薙とも呼ぶべき大きなガレ場の脇をチェーン片手に登る。チェーンに頼らず我が足を信じるところだ。息もつくまもなくブナの林を抜け頭上の一本のダケカンバを目指す。次のピークの上りが待っているのだった。タオルで汗を拭い水を飲んでからとりかかろう。

* *

自宅のベランダから西を望む。立派な山は見飽きない。クジラの背と呼びたいところだがそれにしては起伏が大きすぎる。幾つかのピークが連なるが一番高い峰はラクダのコブの様でもあった。富士もその背中の左手にゆったりと見えるのだが、自分にとってはそれは脇役だった。

そんな丹沢は長きの憧れだった。小学校の校歌にも歌われていた。

♪ 丹沢、箱根、富士の空。
夕日に映えて夏の日も冬の日も ♪

丹沢は富士を除けば初めて覚えた山の名前だろう。自分が丹沢の見える家を選んだのも当然だった。ベランダから見る丹沢山塊はやがて何度も縦断し横断した。いつしか山を見る目は憧れというよりは再会の挨拶となった。

会社を辞め、病を経たことによる自分自身のライフスタイルと価値観の変化から、少し生活環境を変えてみようと考えている。たとえ丹沢がよく見えても、人の多い街で暮らすことに息苦しさを感じているのだった。

丹沢は少し遠くなるだろうか。ならばもう一度歩かないと悔いが残りそうだ。そうだ、今のうちにもう一度この足でしっかり歩いておこう。

久しぶりに歩いて、植生保護の名の下の整備が進む山は昔の記憶は薄かった。何度も歩きよく知ったはずのルートも、記憶は曖昧だった。あれほど居た鹿にも一頭も出会わなかった。最高峰蛭ケ岳の小屋はいつも素通りだったが、今回初めて泊まることが出来た。真西には気難しそうに檜洞丸が大きかった。ここからあのピークを目指して鞍部でテントを張ったこともようやく思い出した。あれもきついルートだった。真東に連なる丹沢三峰も易しい山ではなかった。丹沢での何度ものテントでの独りの夕べは過去の話で、全てが記憶の底に沈んでしまった。

小屋のデッキからチラチラと輝く外界をみて、気が遠くなりそうだった。外界から憧れを持って眺めた懐かしい峰。今度はその頂上に立ち下を俯瞰するのだった。

縦走を終えて少し引っかかっていた悔いは消え大きな満足が自分を包んだ。

丹沢は美しい。その姿に魅了された。そして実際に歩き山の素晴らしさや厳しさと、多くのことを教わった。少し遠くなるであろう丹沢に再び会えることはあるのだろうか。いや、何を言うのだろう、元気であればいつでも会えるではないか。山は逃げも隠れもせずにここに居続ける。遠い近いを決めるのは自分の心持ちだ。今生の別れでもないだろうという思いが、救済だった。

しばしの、御機嫌よう。


2022年10月29日30日
・平丸-稜線-姫次-蛭ケ岳・泊
蛭ケ岳-丹沢山-塔ノ岳-鍋割山-二俣-大倉

相模川から眺めると丹沢は大きく横たわる。誰もが目の前に大きな大山に目を奪われるだろうが、好きな人は塔ノ岳・丹沢山蛭ケ岳の三峰をじっくり見るだろう。残念なことは、檜洞丸も大室山もここからは見えない事だった。さほどに丹沢は大きく深い。また行くよと声をかけた。

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山スキーヤーたるもの・東吾妻山

プラ靴のコバを締め具に合わせて押さえの金具をカチリと押すと靴は装着される。あとは流れ止めを巻くだけになる。ゲレンデスキーでもないのでステップインの締め具ではない。これで板は自らが外さない以外はまず外れない。しかし転んでも踵が固定されていないので足が捻じれる事もなく大事に至らない。つま先から母指球までが板に固定され、踵は常時解放されているというテレマークスキーは至って単純な構造だ。

歩くときはスキーの裏に滑り止めを貼る。シールと呼ばれるナイロン生地は巡目には抵抗なく逆目には毛が立つ。これを利用して斜面を登る。昔はアザラシの皮、そしてモヘアを使ったのでスキンとも呼ばれる。シールを貼れば体感では直登は斜度二十度を超えても大丈夫だろう。あとはジグを切る。

さような準備をしてスキーで登山をする。登る以上目指すは山頂となる。スキーを履いているのは伊達や酔狂でもなく、ずぼりと抜ける雪の踏み抜きを防ぎ安全に効率的に山頂に立ち、下山はシールを剥がして滑降して楽しむという明快な思考に基づいているに他ならない。

スキーを履いた以上山頂はスキーのままで立ちたい。しかし状況がそれを許さないこともある。山頂直下、標高差数十メートルが雪の壁でスキーを置いていかざるを得ない事もある。その程度なら許せる。しかし今回は本格的な登りにとりついてすぐにこれは無理だ、とスキーを外した。

藪が濃いのだった。スキー板が役に立つ斜面ではなく却ってそれは厄介者に思われた。下山してきた単独行氏に聞いても脱ぐが賢明ということだった。しかたなく友と二人でプラスキー靴で登り始めた。プラスキー靴と言うがゲレンデスキー靴とは大違いだ。靴裏はビブラムソールになっていて、テレマーク靴ならば足の甲に蛇腹がありそこから屈曲する。余り違和感なく登れる。山スキーの道具とはそんなものだ。

これほどダケカンバの若木が厄介だ、アオモリトドマツが邪魔くさいと思ったことはなかった。頻繁にそれは行く手を遮り手で払いながら登るが時に突破不可能だった。生きた樹の力は強く直径数センチの枝など押せども動かない。踏ん張るとずぶずぶと脚が雪に潜ってくる。汗がしたたり落ちて心臓は早鐘を打つ。喉が渇く。突破しても変わらぬ斜面が続く。これは心も体も消耗する。

幸いなことに密林の中、約一メートルはあるだろう残雪にトレースは残っていた。ハイマツ帯になりようやく山頂だった。これほどまでに苦しんだ標高差二百メートルは無かった。

山頂は風が強く汗ばんだシャツは寒気を呼んだ。しかし眼下の光景がそれをしばし忘れさせた。宝の山、と地元から愛される磐梯山が余りに立派だった。大噴火を起こし山体が吹き飛び噴石で北面に幾つもの湖を産んだのは百数十年前の話という。そんな一体が今や裏磐梯高原として会津の最大の観光名所の一つになっているのだから皮肉でもある。しかし自分が今踏んだこの1975mの山頂ですら、登りはじめには爆裂火口の名残があり火山ガスが噴出している。日本には至る所にマグマの息吹がある。

高校山岳部パーティが引率顧問と共に登ってきた。地元の言葉で語り合う高校生たち、素朴な青春の息吹がそこにはあった。女子学生は疲れてる風もあったが明るい笑い声に背中を押された。

ザックを背負い山を下りた。スキー板の出番はなく高原の沼のほとりを歩いた谷でそれを履いた。広めの喉のような地形だったが東に寄りすぎると雪が抜け沢に落ちるだろう。それを避けながらシュプールを描いた。春のザラメは滑りやすく今年初めてのテレマークターンを雪面に残した。

標高差にして二百メートル程度のスキー滑降だったがそれで充分だった。山スキーヤーたるもの山頂はスキーで踏むものだ、そんな気負った思いは病になった三年前から消えていた。出来るところまで頑張る。しかし目指した山頂はどんな形であれ踏みたい。今回はまさにそんな形となった。

それで良かったと思う。福島県吾妻連峰。春こそバックカントリースキーを楽しめる山。今回は三度目だった。東吾妻山に西吾妻山。東西に横たわる大きな連峰の両横綱を今回ようやく踏んだことになる。たとえその一つがスキーで踏んだのではなくともそれで山の価値が下がるわけもないのだった。

こだわりは大切だが、現状から柔軟に考え新しい解を見出すことで良いではないか、そう思うようになった。車道に戻り板を外してザックを降ろした。背中に何かを感じて服を脱いだら、それはツガの若芽だった。藪漕ぎで引っかけた枝から首筋に落ちたのだろう芽は、若い木の匂いだった。僕は山の香りに包まれていた。

登り始めて数時間、こんな場所にと思われる池があった。十年前は氷結していたが今は澄んだ水が春を待っていた。その奥に見える山が今日の目的のピークだった。

雪の斜面と凍った水面の境は分明ではない。そこをスキーで進んでいく。目指すピークは近づいた。

雪を進み、時に板を脱いでまた履いた。いよいよ最後の登りにに臨むことになった。がオオシラビソの林はますます濃くなり、スキーの出番ではなくなったようだ。板をデポしてここからのツボ足、これほどきつい標高差二百メートルはかつてあっただろうか?。

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僕だって入りたい・・

ここの所すこしばかり断捨離で物を捨てる作業をしていたので妻も自分も疲れ気味だった。これからシャワーを浴びるのもなにか味気ない。すこし芯から休めないか、そう話して今日は銭湯の日にした。

行きつけの銭湯は数カ所あり、基本的にはそれをぐるぐる回っている。今日は最も小さくて家庭的な湯を選んだ。番台は時間替わりで男性から女性に入れ替わる。自分達よりは十歳は年上だろう。たいてい女性の番台さんにあたる。

彼女は犬好きで風呂から出て家内を待つ間、僕はいつも彼女と立ち話をしている。なぜ犬好きと知ったかと言えば、我が家の犬が車の中で吠えている事をいつも気にかけくれているからだった。

「ほら、ワンちゃん吠えているわよ。中に連れておいでよ、構わないのよ」

そう彼女は何度も言うのだった。しかし日本は決してペットに寛容な社会ではない。彼女は続ける。「うちの犬も留守番が出来ないのよ。この時間帯はさっき番台を上がった旦那が面倒見ているから安心なのよ」と。

今日もそう言われたが、こちらとしては彼に吠えても無駄であることを悟ってもらい、必ず帰ることを覚えてほしいのだ。我慢の訓練だから遠慮します、と話した。

風呂から上がるとすぐに彼の吠え声が聞こえた。車に戻ると彼はガラス窓の向こうに棒立ちでこちらを見ている。ドアを開けて頭をなでていると、ガラス戸が開いて番台の彼女が笑いながらやってきた。お店はいいのか、と思ったが彼女は我が家の駄犬を抱いてひどく嬉しそうだった。

人見知りしないでかわいこちゃんね、と話は続きそうだったが新しいお客が見え彼女は入湯料を貰いに我が家の犬を抱いたまま番台に戻った。ようやく家内が犬を抱いて戻ってきた。

彼は言いたかったのだろう。置いとかないでよ、僕だって風呂に入りたいと。今日の所はさ、番台さんも相手にしてくれたのだから許せ。そのうちに慣れてくれな、とだけ話して頭を撫でた。今度来たらきっと彼女の足元には彼女の愛犬が座っているのではないか、更にはそこにはうちの駄犬も尻尾を振って並んでいそうな気がする、それは少し情けない絵図だがそうなったら面白いかもなとも思うのだった。

今度はこの暖簾の下にいるかもな・・。それもありかもしれぬが、それはちょいと情けない。

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魔法の調味料

パスタは美味しい。初めて食べたのは何時だろう。母親が作っていたものが最初だろう。それはフニャフニャの麺をケチャップで炒めたようなものだった。大学の学生食堂ではミートソースのスパゲティがあった。挽肉のソースが美味しかった。がこれまた柔らかな麺だった。が250円という値段は魅力的だった。それは「スパミ」と略して呼ばれ多くの学生から人気があった。食べ終わると口の周りが赤茶になるので女子学生を前にする時は無意識で手で口を拭っていた。

初めてそれらしいパスタを食べたのは渋谷だった。壁の穴という名前のレストランだったろうか。それはソフト麵にミートソースをかけたものではなくもっと手が込んでいた。とても美味しかったが何を食べたのかも覚えていないのは憧れの女性と向かい合わせだったからだろう。左手にスプーンを持ち右手のフォークでパスタをスプーンの上でぐるりと巻いて食べるのか、、、。ラーメンではないからすすっては駄目だな、そんな事を知った。

社会人になった頃からブームもあったのかイタリアンレストランが増えた。ただリストランテ、トラットリア、オステリアなどの違いは知らなかった。友人が企画してくれた自分達の結婚式の二次会は六本木のイタリアンだった。カジュアルで気楽な店だった。出張で行ったマンハッタンのリトル・イタリーの街並みにはずらりとイタリア国旗が並んでいた。そこで初めて外国人の手によるパスタを食べた。とても美味しかった。シーフードのトマトソース、そしてベーシックなアリオリオぺぺロンチーノだっただろうか。映画で見るようなイタリアンマフィアの銃の乱射がある訳もなく満喫できた。

ドイツ駐在時には仕事で毎月ミラノに行っていた。昼はいつも気楽なピッツェリアかトラットリアだっただろう。フランス人と同じくランチにワインはつきものだったが仕事の相手は昼間はワインを止めていた。イージーゴーイングな人たちと思っていたが意外と几帳面だった。その代りドルチェを楽しんだ。バニラアイスクリームにエスプレッソをかける。ほろ苦さと甘さが絶妙で、何とかの一つ覚えで自分はアフォガートばかりを頼んでいた。

パスタと言ってもスパゲティばかりではなくリングィネ、タリアッテレ、カッペリーネ。それにこれまた多くのショートパスタ。色々ありそれぞれに似合うソースもある。奥が深くいつも何を頼むか悩むのも楽しみだった。

いつしかパスタは自分でそれらしく造るようになってきたが、アリオリオペペロンチーノかそれにトマト缶を加えてのトマトソースばかりになった。時に自己流で醤油や出汁、味噌を使い和風にもするが、基本は具材が変わるだけだった。手のかかるラグーソースのパスタなどは最近余り作らなくなった。アボガドとサーモンのカッペリーニはこれからの季節だろう。時折イタリア料理ではないナポリタンも作る。・

それらのレシピをネットなどで見るとだいたいこう書いてある。「ここでパスタの茹で汁を加え・・・」と。茹で汁を加えたら味が薄くなるではないか?そう思い半信半疑だった。が、茹で汁を入れ熱を加えてソースを乳化させると味に深みが出た。「これが味のキモだったのか!」友人からそれを教わった時は感心した。以来少しだけパスタ料理の腕が上がったように思う。

そんな魔法の調味料がいったいどんな味なのかは知らなかった。今日の昼食はバジルソースを使ったパスタだった。もちろんそれは瓶詰の出来あいのソースだった。挽肉と玉ネギ、にんにくを加えただけだった。最後にパスタの茹で汁を加えて加熱する。はて、この茹で汁は一体どんな味なのだろうか。お椀にあけて飲んでみた・・。

パスタ100g・お湯1L・塩小さじ1というのが茹で汁の教科書だが、二人前200グラムとすると2リットル必要になる。流石にそれは無理でいつも水は減らし気味。塩は適当に入れている。そんな茹で汁はややしょっぱい。そしてパスタから溶け出したであろうでんぷんを感じる。これか!乳化の理由が分かった。でんぷんとオリーブオイルが溶けあい微妙なコクがでるのだな、と納得した。ソバ屋でモリ蕎麦を頼むと最後に蕎麦湯が出てくる。茹で汁だ。それをそのまま飲むとこれもまたソバの香りのするどろりとした汁だ。それと同じだとわかった。

正体が分かったのでこれからは味が薄れるなどあまり気にしなく使うといいだろう。何事も知ってしまえば安心に使える。知らなければおそるおそるのままだった。こんな事は自分の身の回りにもまだまだあるのではないだろうか。それは損をすることになる。何事もトライということか。

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ちいさな祈り

車に乗りオーディオを鳴らした。メモリーカードにはジャンル分けした好きな曲が入っている。その時はソウルミュージックのフォルダだった。アレサ・フランクリンが熱唱している。彼女の歌声は自分にある風景を思い出させてくれた。

カトリックの友人と教会に行った。彼女は壁にかかったイエスの像を前に膝まずき十字を切っていた。それは自然な所作だった。ステンドグラスから光が漏れて床にいくつもの彩を作っていた。ひんやりとした空間で、厳かだった。自分は何をしたらよいか分からなかった。何のお祈りをしているのかなどは分からない。ただ祈れる相手がいて祈ることがあるという事が素晴らしいと思った。

アレサの歌っている内容を知りたくて歌詞を調べた。題名から想像はしていたがそれはやはり愛する人へ向けたものだった。I say a little prayer という題が邦題では 小さな祈り となっている。小さな祈りを唱えますという事だろう。

彼女は目覚め、メイクアップをし髪を整え服を選ぶ。そんな時祈る。愛しいあなたよ。私を信じて。貴方には私しかいない・・と。バスに乗る彼を見ても彼女は祈る。しかし曲のエンディングではこう歌う。私の祈りは何故届かないの?どうして答えてくれないの? 

実らぬ思いなのか、いやもっと激しく思ってほしいという想いなのかもわからない。この曲はアレサの版とマーサ&ザ・バンデラスの版の二つを良く聞く。アレサ・フランクリンが唄うと情熱的な女性が浮かぶ。マーサ・リーブスが唄うと元気者なのに実は華奢な女性なのかな、とも想像する。どちらにせよ、そんな素敵な女性に祈られる歌の相手はそれほどに素敵なのだろう。

さて僕は何を祈るのか。まずは身近な人の健康を、そしていつまでもこの曲を聞いて胸をときめかすこと、ビートに乗って自分の幸せを実感する様にいられる事を祈るのだろうか。大切な人を思い、好きなことに心を揺るがせることが出来るのは、幸せだろう。

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