日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

武田橋・信玄橋 自転車一筆書き

ずっと横浜に住んでいた。家は工業地帯を展望する高台にあり開港記念日には港の花火が見え、大晦日の夜には年が明けると一斉になる船の汽笛が除夜の鐘だった。そんな街から僕はひたすら一筆書きをしていた。自宅からサイクリングである所まで。すると次回はそこから次の街へ。ときには車を使い時には自転車を輪行袋に収めそこから走り出す。初めは気ままだったがそのうちに方向性が出てくる。僕は学生時代の友が住む東北の街を目指そうと考えた。横浜から武蔵野へ、所沢へ。熊谷へ、伊勢崎へ、佐野へ。そして栃木から鹿沼、宇都宮、黒磯へ。松尾芭蕉が歌った白河の関の西、棚倉という古い城下町が目指すところで、そこには懐しい友が住んでいた。

僕はこれをシャクトリ虫の自転車旅、一筆書のサイクリング、そう呼んでいた。山梨に引っ越すことを決めてからはそれを西に延ばすこととした。武蔵野から高尾へ、笹子へと伸ばし甲府まで伸びていた。あと一回のランで横浜から転居した高原の町からそれは繋がるだろう。何時でも出来るな、そう思うとなかなかその気にならなかった。

秋晴れが続いた。雨続きだったお盆を盛り返すような晴天だった。昼前に思い立ちランドナーの前後輪を五キロになるまでポンプを押した。我が家は海抜九百メートルに位置する。目指す甲府盆地は海抜二百七十メートルだからコースは長い下り坂となる。楽勝と踏んだらさにあらん。山道の常としてそれは緩く上下して意外にしょっぱいものだった。

刈り入れ前の稲穂が輝く。風が吹くと金色に空気が染まる。韮崎市にて長い下りから解放された。ここから最短でいくともう一度丘陵超えがある。それを避けるようにと僕は釜無川を南西に渡った。「武田橋」という橋だった。南アルプス市になった。北岳など南アルプス登山のために何度も通った街が市町村合併でそんな名前の市になっている。甲府がゴールなので再び釜無川を東に渡った。今度は「信玄橋」だった。地図で予めわかってはいたが関心してしまった。橋の欄干には家紋の武田菱が描かれそこに信玄公が馬に乗り進軍を指示している、そんなレリーフがついていた。そう言えば自分の住む街の駅で切符を持ち帰ろうとスタンプを押して貰ったらそれは武田氏家紋の武田菱だった。

山梨は何処に行っても武田信玄だった。当地の銘菓は信玄餅だし、甲府の駅前には彼の大きな像がある。武田の縁の地やその名を冠称した神社や建築物など数えられない。そう言えば仙台には伊達政宗公の銅像もある。郷土に英雄があるのは良いことかもしれない。僕はひねくれ者で高校の歴史の教科書で見た両武将の肖像画や話から、武田信玄よりも上杉謙信の方が好きだった。「敵に塩を送った」と言われる上杉謙信はスマートに思えたが、武田信玄はいかにも土着感漂うオヤジに思えた。とてもこの地では大声では言えぬ。しかしそれも仕方ない。この地が信玄公を仰いでいるのだから。

武田橋を渡り信玄橋を越えて、ようやく甲府駅だった。ここで僕のシャクトリ虫のような小さな一筆書きは一旦完結し大きな一本になった。西は長野県富士見町、北は福島県白河市。ここまでシームレスに自分の自転車旅の軌跡がつながった。この山梨の家で腕と足を広げて寝てみると、それは福島から長野につながる。長野・山梨・神奈川・東京・埼玉・千葉・群馬・茨城・栃木・そして福島。こう書いてみると、なんだ、たかがたったの十県ではないか、そうも思う。静岡はあと少しで一筆書きで繋がるが、そうであっても日本全国の四分の一弱が一筆書きで繋がっただけだった。距離はのべ五百キロだろう。どうという話でもないが、ある種の達成感があった。次はどうするか。まずは近い静岡に、そして次は新潟に繋ぎ太平洋と日本海を繋ぎたいとも思うが、願いは直ぐに達成する必要もない。そんな目標に縛られて気ままな旅という自由な気持ちを失うのもつまらない。

相棒のランドナーは度重なる輪行で塗装も傷つきボロボロだ。サイクリストにとり自転車の傷も旅の名誉、と最初は思ったが今はそれも気にならなくなった。「信玄橋」の欄干にあったではないか。「風林火山」の幟を立てて進軍を指示する信玄公の像が。あの軍配団扇の行き先は何処を示してていただろう。それは何処でも良い。僕は行きたいところに一筆筆書きを伸ばすだけだ。

自宅を出てすぐ。甲斐駒から鳳凰への稜線は雲に隠れてしまった。刈り取り前の水田に風が吹くとあたりは金色になる。

釜無川を「信玄橋」で渡った。武田菱に武田軍の行軍が書かれている。そういえば武田信玄は晩年は釜無川下流駿河の国をを攻め三河の国で死んだ。彼はこの川を下るように命じたのかもしれない。