日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

境界線

漢字にして三文字だが、境界線とは考えさせられる。線の向こうとこちらで何か違うのだろう。

自分が初めて境界線を意識したのは、大学入試だった。通っていた予備校の試験で出てくる結果表。志望校が射程内か外か、その境界線がAやBというアルファベットで示されていた。Aは80%、Bは50%、そんな合格率だった。AとBの境は大きく、実際に越えられなかった。

境界線でもスケールの大きなものは国境だろう。映画「大脱走」では逃げるスティーブ・マックイーンの乗ったバイクは幾条にも張られた国境の有刺鉄線をジャンプで越えていくが最後の高い網を越えることが出来ずに捕まった。あの向こうがスイス。永世中立国に逃げ込もうという狙いはついえたが、今見てもよくできたシーンだと思う。あれが物理的な境界線として心に残った。

自分が初めて陸路で超えた国境はバスに乗りオーストリア経由で入国したチェコとの境だった。ベルリンの壁が崩壊する数年前だっただろうか。国境には検問所がありそれ以外は当然鉄条網、と思っていた。しかし容易に通過した記憶がある。今は国境の記憶が薄くもしかしたら鉄条網はなかったのかもしれない。しかし国境の向こうはレストランも予約制。街も暗く商店に商品は少ない、そんな世界だった。自分の様な出張者に対してはエージェントが宿を手配してくれた。その宿とは普通の集合住宅(アパート)だった。住民は当時は闇紙幣扱いだったのかもしれないが米ドルが欲しく、アパートの住人はドル紙幣を受け取ると約束の泊数は家を出払った。

境界線を越えてウィーンに戻った時には安堵した。物は豊富にあり、レストランは予約も不要で好きな時に好きな店に行けた。境界線の向こうとこちらでは明らかに違う世界があった。

陸続きの国々だからそれを意識するのだろう。自力で国境を超える、そんな経験も陸続きならではの話だ。ドイツで住んでいた街はオランダ国境まで近かった。自転車で国境を越えてやろう、という想いを抑えきれずに走った。国境には特に何もなく、いつしかオランダを走っていた。強いて言えば道路に立っている街路標識の文字が見慣れたドイツ語ではなかったことでそれに気づいた。

ヨーロッパ最高峰・モンブランの周りを一周するトレッキングコースがある。ツール・ド・モンブラン。一周するならば2週間は必要だろう。友と歩いた自分は半周ルートだったがそこに五日間を掛けた。フランスとイタリアの国境はトレッキングルート上にあり、そこには小さなケルンがあるだけで、風景は連続していた。

東西冷戦はとうに消え統一通貨も出現し当時の欧州では国境線は意味を持たなくなった。また物理的な境界線はあの広大な地には意味をなさない。

島国の日本には国土に国境線はない。境界線があるとしたら県境か。そういえば戦後には米軍基地のこちらと向こう、そんな世界があった。「高いフェンス 越えて見たアメリカ」、「二駅揺られても、まだ続いてる。錆びた金網、線路に沿って」。柳ジョージ松任谷由実はそう唄っている。自分も思い出した。小学生の頃バスに乗り横浜の本牧辺りを走っていた。白いハウスが金網の向こうにあったことを。

境界線の向こうには異文化がある。未知なるものに対する憧れは誰もが持つ。

先日「三県境」と呼ばれる地をサイクリングで訪れた。三つの県の境というその場所は、栃木・群馬・埼玉の県境だった。何もない、目立たないただの畑の中の一角だった。渡良瀬川の遊水地のすぐ南だった。境を示す小さな標識が埋まっていた。

昔であれば、下野国上野国武蔵国になる。情報共有が容易でかつ全国通して均質化した今の社会ではなく、国と呼ばれていた時代。線の向こうとこちらにはなにか違いがあったのだろうか。未知なるものへの憧れもあったのかもしれない。あるいは境界線のありかを巡って今も絶えない国境紛争の様に、ここにも昔はせめぎあいでもあったのだろうか。

今でも地方によって言葉や食文化は微妙に違う。県民性という単語もある。そんな文化のせめぎあいがこの境まで来ている。この線の手前と右向こう、手前と左向こう、何が違うのだろう。そんな事を思うとなにやらそこに夢があるな、と感じる。三県の境界線を足でまたぐのも又、偉い領主様になったようにも思え、楽しいものだった。

さもない畑の一角に三県の境があった。細長い用水路がその境を決めている。その合流地に石柱が埋まっていた。この境の手前と向こう、何が違うのか。面白い。

栃木県栃木市、埼玉県加須市群馬県板倉町。その境だった。

サイクリングでドイツから目指したオランダ。何時しか国境を越え、見慣れぬ道標にそれと気づいた。