日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

旅する本

書棚を整理していたら、一冊の古びた本が出てきた。

1990年発行のガイドムックで「MTBフィールドガイド・関東甲信越編」とある。

ああ、ここにあったのか。懐かしい本だな。この本を見て、いくつかルートの参考にさせてもらったな、と即座に思い出したのだった。

MTB、マウンテンバイク。1990年といえばその数年前から端を発したマウンテンバイクの人気が大きく膨れ上がったころだろう。それまで日本のスポーツサイクルの中心にいたロードバイクとツーリング車(ランドナー)。そのうちランドナーはこの爆発的人気の前に一気に衰退した。林道などの道路事情の改善も手伝い悪路も走れるランドナーの活躍場所が狭まったこともあろう。一方でアメリカ生まれのMTBの持つ自由な感覚は新鮮で、間口も広がったのだろう。

高校生の頃からランドナーの姿を見馴れていた自分も、本格的に自転車に乗り始めたのはMTBからだった。丁度結婚した頃で、家内とともに2台買った。GIANTという知らないメーカーの製品で一番安いものだった。これで自分たちが新たに住み始めた街を走った。

その頃会社の先輩方もやはりMTBに乗り始めていた。当然のごとく、野山に共に走りに行ったり、あるいはキャンプをそこに加えたりした。まだ新入社員から数年経っただけの、週末のほうが仕事よりも大切な、気楽な社員だった時代だ。

一人の先輩が「この本、良いよ」と貸してくれた。「MTBフィールドガイド・関東甲信越編」と書かれたA4版のカラー装丁の素敵なムックだった。ルートの紹介、周辺ギアの紹介、MTBのカタログ。そんな本は見ているだけで楽しかった。ルート案内については林道や河原なども紹介していたが、23区内のポタリングルートも紹介していた。

自分は林道や河原、峠越えなどよりはポタリングの方に興味があり自転車活動の軸足はそちらに移っていった。

お気楽社員だった当時は今思えばバブルの始まった時期でもあった。やがてそれも終焉を迎えていく。その長い流れの中で、ハードテイルの、シンプルで頑丈さだけが取りえだったMTBにもいつか前後にサスペンションが付くようになった。野山を高速で駆けおりる更に新しい遊びのスタイルが生まれたのだった。

しかし自転車の変化以上に変わったのが自分達だろう。先輩・自分もそれぞれ仕事も忙しくなり責任も増え、家庭生活のウェイトも増えた。職場も場所が変わり、転勤もあった。本を貸してくださった先輩も、自らのステップアップのために会社を辞めいつしか転職された。連絡の術も無くなってしまった。

お借りした本は持ち帰って読んだ後、すぐに返そうと暫くは会社の机に在ったことは憶えている。何度もの事務所の移転に伴いその本も机ごと移動したのだろう。海外駐在の際に机を整理し、この本は家に持ち帰ったのだろう。借りっぱなしになってしまった。そんな思いが棘のように残っていた。

それは、二十年、いや三十年だろうか。

ネット時代からSNS時代となり、それを通じて懐かしの先輩と「つながった」。すぐに小さな自転車旅にて「再会」をした。素敵な遊びを教えてくださった恩人でもある。時間の流れを感じさせない昔通りの先輩だった。柔和な笑顔、大きな背中に達者な脚力。体幹がお強いな、と思えば、学生時代には少林寺拳法をやっていた、と初めて知った。

MTBに凝っていた先輩はいつしかマニアックな「クラシックロードバイク」乗りとなっていた。自分もオタクな「ランドナー」乗りだ。リタイヤ後の生活を考えられている先輩、病を得てすでにリタイアした自分。やはり時の流れは確実だった。

書棚から出てきた先輩から借りっぱなしのムック。一冊の本が与えてくれた不思議な縁を感じる。再会のきっかけは偶然を伴うSNSであっても、実はこの本がその仲介役・立役者だったのではないだろうか。

実際に本には力がある。小学生時代に読んだ本は自分の感受性をつくるのに何らかの役に立っている。中高生の頃に読んだ本の一節が頭によぎることは今でもある。古今の作家たちが紡ぎ出した「美しい日本語」を忘れることも出来ない。自己の確立で悩める青春の頃は本からエネルギーを貰ったかもしれない。本でその世界に入った趣味もある。

これらの記憶は頭の中の何処かの層に埋もれているが、ふと思い出したように引き出しが開くのだ。そして時には人との再会ももたらしてくれる。

この本をお返ししなくてはいけない。まったく紙を数百ページ束ねただけの紙束になぜ力があるのか。この本を返却してしまうとなにかが寂しい。しかし持ち主さんの下に帰るべきだろう。

そうだ、この本に書かれているルートを共に走ってみるのもありだろう。その時がお返しのチャンスだと思う。時間と空間を長く旅をしてきた本にはお礼をしなくてはいけない。

何十年も前に先輩からお借りしたムック。この本の持つ「力」が自分の好奇心の扉を開いてくれた。時空を旅した本もようやく里帰りが出来そうだ。