日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

暑中お見舞申し上げます

文月になった。今年は水無月の頃から早くも夏真っ盛り…。

懐かしいキャンディーズの歌が頭に浮かぶ。恋する女の子の胸の内を歌った曲は小学生には理解できなかったが、冒頭フレーズは今でも錆びずに輝くし、3人のハモリも素敵だった。

歌の通り。確かに、本当にここ暫くの猛暑にはカラダもココロもついていけずに、自らを見舞いたくなるほどだ。

しかし暑中見舞いと銘じたハガキを最近全く書いていないことに気づいた。小学生の頃は、それを書いて友人の顔を思い浮かべながら赤ポストに投函するのは確かに楽しい行事だった。

夏休みの入りたてに書かないと、当時は宿題だけを手にして親の実家に帰省してしまい遊び三昧になるから、書くことも出来なくなる。戻ってから書くと、残暑見舞いだよ、と言われてしまう。残暑見舞いは「乗り遅れてしまった」気がして書きたくはなかったのだ。

どんな内容だったのか、花火の絵でも書いたのか。即席で書きなぐったのかもしれない。

風鈴たなびくよしず張りの縁側で、蚊取り線香の匂いを感じながら板敷きに正座して書く。流石に自分はそんな時代ではなかったが、季節感を大切にする、暑い中に相手の健康をおもんばかる。それを挨拶状にしたためるのも今思うとスローで、心にも余裕があり、素敵だと思う。

げんき?
暑いね!
溶けそう

チャットだとさしずめ5文字以内か。スマホさえあればすぐだから、乗り遅れようもない。確かに相手の健康をおもんばかるが、そこには暑中見舞いという単語は出て来ないだろう。様式にこだわった、形式張った言葉ということなのだろうか。

文箱にハガキがあった。筆も絵筆もあるではないか。では何かを書いてみよう。よしずの縁側でないのが残念だが、冷房の効いた部屋で椅子に座り机に向かった。

久しぶりに暑中見舞いの定番フレーズを書いてみたら、ああ、これなら大切な人に送りたいなと、「自発的に」感じることに気づいた。手紙に字を書くという事は、想いを込めると同義語と知った。

しかしそれを受け取った人が、忙しい中にはがきを買い求め、返礼をしたためるのか、迷惑をかけぬか、と思うとそれも負担になる。ならばチャットで、となる。

どこでも瞬時に連絡が取れる手段が生まれた。簡単なフレーズのやり取りで意思疎通するのは手軽だ。便利極まりなく、そればかり。腰を据えて何かをしたためる余裕もなくなってきていることの裏返しだろうか。

それも仕方ない。多すぎる情報に始終洪水のように埋もれかけている今は、雲霞の如き情報を斬っては捨てなくては追いつかない。誰も心に余裕がなくなってきていることだろう。

様式美かもしれぬが、想いがある以上はせめて「暑中見舞い」という美しい言葉は残したいものだ。そう思いつつも、さて書いたハガキはどうしようか、と思い悩んでしまう。

キャンディーズのあの歌でも、聞いてみるか。ポップな彼女たちの歌声が、背中を押してくれるかもしれない。

暑い夏。この時ばかりは、清流を楽しむ魚が羨ましい。