日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

特急ひたち 仙台行き

自分のあの3月11日は当時勤務していた静岡県の会社の建物の中だった。静岡県だ。東北からは5、600キロは離れているだろう。しかしそこで危機感を感じるほどの大きな地震で、ただ事ではないと生理的に思ったのだ。会社のメンバーへの害もなく、すぐに家族の安否確認もとれた。ほっと安心するも新幹線も止まってしまった。当日は帰宅不可能となり会社に泊まったのだった。

その晩会社で見たネットニュース映像は信じられないものだった。ニュースの傍観者に過ぎなかった自分にはそこからあとの話を今ここで書くほどの経験も見識もない。その後の原発の事故といい未曾有の災害に見舞われた方々に、通り一遍のお悔みを述べてもなんの意味もないだろう。

胸を痛めた事は多かったが、常磐線が寸断されたことはいち鉄道ファンとしても厳しい事だった。

子供の頃の「みちのく」への鉄路は東北本線常磐線に限られた。東北線周りは特急「ひばり」。そして寝台特急の「はつかり」。ブルートレインもあった。手持ちの1976年版交通公社発行の時刻表を見てみよう。東北線周りのL特急「ひばり」は朝7時の上野始発を始発として夕19時上野発を最終にしてほぼ正時に出発、4時間かけて仙台まで走っていたことがわかる。

一方の常磐線周りは「ひたち」。これが、平、原ノ町を経て仙台までで走っていたのだ。同じく当時の時刻表では、上野から仙台まで、長躯駆け抜ける「ひたち」は上野発16時、仙台着20:41の「ひたち5号」のみ。しかし上野発5:55、仙台着13:55という列車、これは電車ではなく電気機関車の牽引する直通の客車列車が走っていたことがわかるのだ。みちのくへは、東北線常磐線がつながっている。讃岐の国で生まれた自分には、上野駅は見知らぬ国への玄関。小、中学生、そして大学生の頃の僕はそれを時刻表で追っては楽しむ、机上の旅のマニアだった。

そんな常磐線周りの仙台行き特急は地震を境に無くなった。いや、常磐線自体が途中で分断されたのだ。それほどに強い地震だった。

日常という毎日の積み重ねの下に当時の記憶は遠くなる。当事者ではなかった自分にもフクシマという単語は深く残ったが、あれから10年以上も経ち、いつしか自分には日常が戻っていた。

数年経って連絡のついた東北に住む学生時代の友人たちもやはり辛い時を過ごしたようだった。しかしそこには深入りもできなかった。

先日昔の仲間との会合で久しぶりに都心に向かう通勤電車に乗った。品川駅を過ぎて眼の前を見て驚いた。

常磐線の始発の一部はいつしか品川駅になっており、特急ひたちもまた例外ではなかった。品川駅から、常陸の国への旅人を運ぶ特急が発車するのだった。

自分の乗っている通勤電車の横を、スマートに特急ひたちが走り抜けていく。しかし並走する特急ひたちのドア横の行き先掲示板を見て、僕は膝を叩いたのだった。

「特急ひたち 仙台行き」

そう、確かに掲示板の電光表示は示していた。わが目を思わず疑った。しかし瞬きしても、掲示板の文字は変わらなかったのだ。

分断されていた常磐線はいつしか再開通して、そこに仙台行きの特急が再び走るようになったのか!皆ただ雌伏の時を過ごしていたわけではない。復興への足音はときに声高に、ときに静かに、しかし確実に進んでいたと実感したのだ。

自分の乗る通勤電車を尻目に「仙台行き特急ひたち」は鮮やかに軽やかに、横を駆け抜けていった。

決めた。今度僕が、東北の友人に会いに行くことがあるのなら、迷わず新幹線ではなく常磐線まわりの「特急ひたち仙台行き」を選ぶことだろう。人々の持つ熱意と、熱い復興への思いが、ゆっくりと立て直されていく街並みが、沿線風景に広がるに違いない

東京から常陸の国、そしてみちのくを結ぶ鉄道幹線の復興。部外者の自分でも、それを素直に喜ぶことを許してほしい。自分はまずそれに乗り、しばらくご無沙汰している「みちのくの友」に会いに行こうと思う。それが自分として出来る、復興の喜びを実感し、分かち合う事だと思っている。

京浜東北線の横を特急「ひたち」は颯爽とすり抜けていく。出入口の行き先電光掲示板には「ひたち・仙台行き」、そう確かに書かれているのだった。それがただの鉄道ファンを、ひどく幸せにしてくれた。本当に、良かった。