日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

未来の街って、何だろう。

先日学生時代の友人と会う機会を設けた。40年来の友人になる。久しい再会は懐かしい街の訪問だった。

様々な昔話や今、自分たちの年齢が抱える課題などで話題は尽きない。楽しいときは一瞬だ。友は運転免許を持っていないが、老境に入った親の事を考え、その取得を視野に入れているようだった。・・でも、運転免許は本当に必要なのだろうか。こんな話題が出た。

「そういえばさ、自分たちが子供の頃の「未来の街の図」てさ、車は空に浮かんだチューブを走っていたね。もちろん運転手はいなくて、渋滞の無い中を自動運転だったね。でもまだ来ないね、そんな時…」。

確かに、それが手塚治虫なのか、星新一なのか、ダニエル・キイスなのか、はたまたHGウェルズなのか、誰の手によって描かれたものかは記憶にない。文章だったのか、絵に描かれていたのか、それも曖昧だ。しかし、高度に発達した社会ではもはや建築物も空中に浮遊し、自動制御の交通機関が渋滞もない世界を動き、人間は時空をも超えたトランスポーテーションも可能だった。彼らが描いた未来図は、そんなものだったと記憶する。

自動運転は人工知能の発達が前提になるだろう。その人工機能で動くモノがロボットだ。初めはコマンドを忠実に実行していただけの機械も、人工知能により自律的な判断が行えるようになった。彼らがそう動作をしようとしてもその過程で何か物理的な障害に触れては仕方ない。そこでセンシング技術がモノをいう。センサーの技術に加え高精度なステッピングモーター‥さまざまな技術の集積体がロボットであり、そこに高度な演算処理能力が加わることで人工知能も付加された。

そこまでいかずとも、現代社会のロボットは既に様々な分野で活躍している。自動車メーカーの作ったヒト型ロボットなどはいかにもアイコニックな一例だが、今や沢山のロボットに自分たちの生活が囲まれていることを感じる。勝手に床を動く掃除機など、確かに自分たちが学生の時代には想像もつかなかった。つまらない話だが、機雷や地雷の撤去にもロボットが駆り出される。ミサイルも目標に向けて軌道修正しながら飛翔する。医学においても、内視鏡手術や脳外科手術など、繊細で精密な動きが求められる箇所には支援ロボットが進出している。実際昨年の自分自身の脳腫瘍摘出手術でも、もしかしたら、ロボットのお世話になったのかもしれない。ロボット技術が無ければ今僕はここに生存していなかったかもしれない。高齢者施設でも、利用者さんの体の具合に応じて人間ではなく機械が入浴支援をしてくれる。「ロボット浴」と施設では名がついていた。自分が今こうして書いている原稿すらも、タイプミスを探し出すのにはもう一度口に出して読みあげるよりも、ワープロソフトで自動朗読させたほうが効率が良い。

ありがたい話で、想像もできない程の進化がこの数十年にあったのだ。イギリスの産業革命が当時の世界に与えた波は教科書に載るほどのものだった。今の変化はマグネチュードは小さいかもしれない。が細かく多岐に及ぶ便利さの進歩という点では、ロボット技術はこれもまた大きな革命だろう。そんなことすら言われて久しいが、その時点からさらに進化している事を実感するのだ。

先日家内ととあるファミリーレストランに行った。すると廊下の奥から「ピーッ、ピーッ」と物音がして、見慣れぬ物体がそろそろと進んできた。高さは1メートル40センチくらいだろうか。形はオバQ(お化けのQ太郎)といったヌボーっとしたものだが、その胴体は棚になっている。よく見ると幾段のも棚には出来立てで湯気を上げている料理が載っているのだった。

「ああ、配膳ロボットか!!」

家内と顔を見合わせた。つまづかないように、人やモノに衝突せぬように、それはセンサーをフル稼働させながらゆっくりと通路を進んでいる。とある机の角で右折して、止まった。「あぁ、来るところまで来たな。」思わずそう思う。配膳くらい笑顔とコミュニケーションが欲しいよね。そんな場でロボットの必然性は何だろう。強いて言えば、一台で多くの皿が運べる事だろうか。いや、これ一台で従業員数名分の役割を果たすのか。

お店の方に頼んで配膳ロボットを見せてもらった。「当店で実証実験中なんですよ」と言われる。ロボット君の上部はタッチスクリーンになっていて、話しかけるとスクリーンに描かれた猫の顔がしゃべるし、撫でてもスクリーンは笑う。「コミュニケーション能力、忘れていませんよ。」そう言いたそうだった。

別の日に見たテレビでは、光合成を行うシアノバクテリアに注目し、それを用いた建材や塗料で建物を作りたい。もちろん光合成による二酸化炭素削減がゴール。そう語る小学生が取材されていた。温暖化にくさびを打つ、素晴らしい話だ。

友と話した「空中浮揚をする街で、チューブの中を自動運転する車」も、今の技術と、熱意ある若い世代の中で、これではあながち絵空事ではないのかもしれない。自分がこれからどんどん老境に進んだとき、何が自分を待っているのか、とても想像もつかないが楽しみでもある。しかしこれ以上の便利さは自分の中では浮かばない。もう今でも十分なのだ。未来の街は快適さの追求であるとすれば、もう今は未来なのかもしれない。今あってほしいものは「渋滞がない世界」そして「時空を超えたトランスポーテーション」くらいだろうか。まだまだアナログだった懐かしいあの時代には、人間同士との熱い交流があった。そこに戻りたいな。便利さだけは今のままで、そこで友人とあたかも初めて会ったように再会し、若き家内に再会出来たら、それはいかにも痛快だ。

そうそう、欲を言えば「全ての難病を完治させる先進治療」も欲しいかな。…しかし待てよ。自分は唯の動物に過ぎない。この体は単なる水分と炭素の化合物。いつかは器官も休止し、終止する。それが定め。そればかりはロボットでも若き英知で発達した科学でも何も出来ない。もう今でも充分便利。だから、それ以上の想像は頭の中でとどめるのが一番なのかもしれない。

そう、未来の街は、頭の中の街という訳だ。

 

こんな絵が未来の街だったと思うのだ。未来とは何なのか、こうして絵を描く限り、生活の快適さ、便利さの追求だったのだろうか、と思う。すると今は既に未来なのだろうか?



こんな猫ちゃん顔が突然テーブルにやってくる。コミュニケーション力もある。なるほど、これが、未来か。