日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

これからの自分を生きる・・とは

急用があり都心を抜けて県外に出かけた。その夜に会社時代の仲間との会合が予定されており、間にあうようやや慌てて上野東京ラインに乗った。

駅ごとに乗ってくる人は少ない。が東京・新橋・品川と電車が止まるたびにサラリーマンで満杯になった。車内の風景。さすがにこの時代には新聞を広げる人は少なくなった。代わりにスマートフォンで日経サイトをチェックし経済情報仕入れてる男性。タブレットで仕事関係のEメールを見ている男性。そして自己啓発やハウツー本読む男性。皆僕と同じ年ごろかその上か。一昔前の様にスポーツ紙や夕刊紙、漫画雑誌を読む方は見かけないのだった。この数年で激変した社会、のんびりしていては会社に残れなくなったという事実を、こんなところで感じるのだ。本当に会社にとって必要な人だけになったのだろう。そんな方々も、皆生きるために一生懸命。

スーツにネクタイ。それは数年前に自分で一旦見切りをつけた世界だった。すぐに再就職したものの今度は病がそれを遠ざけた。今は体を治しながらゆっくりと過ごしている。そうせざるを得ない。もうサラリーマンとして再びあの世界で生きるのは心も体ももついてこないように思える。

密空間の中での一人だけの異邦人。そんな思いが頭に浮かんだのだった。周りの方々と自分の間には壁があり、それを遠くからひどく客観的に見ている自分が居た。僕はラフな私服でカジュアルな帽子を被って、満員の通勤電車の中、一体何をしているのだろう?

焦りではない。あの生活に郷愁は少しはあるのか。しかし、病との闘いのベッドの上で、少しだけでも先の世界を見たような気もする。そこで自分なりに何かを得て、今の生活がある。だから今の僕は正しい。そう思おうとしているのだろうか。

パートタイムで働く今の地域に根差した仕事では、様々な長い生涯を経て旅路の終焉をいつか迎えようとしている方や、障害と共に生きている方に接する。今を生きるという事、それしか彼らにはないように思えるのだ。抗いようのない自然の摂理や天命ともいえる状況の中、悩んでも現状は変わらない。そしてそんな状況は生物である以上自分にも確実にやってくる。

そう思うとこの先を考えて、なにが正しいのか、先のことは実は何もわからないんだな、と気づくのだ。

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会社時代の3名の仲間たちとの会合は楽しいものだった。仲間と言っても三人ともに自分の先輩。一人は自分の上司。この方には職務上人事考課もされたし叱責もされた。しかし管理職としての姿も教わり、自分が職務上壁に突き当たりメンタルを患ったときには適切な助言と対応をしていただいた、恩人でもあった。また二名の先輩方はわずか数歳も違わないが入社した時点でもうバリバリの中堅で、英語を達者に使い欧米の大企業相手に大きな仕事をしていた。皆さん輝き自分には眩しかった。

しかし今は皆年相応だった。自分と等しく共に年月を経て定年を迎えた方ばかり。ある方は会社役員まで登り詰めその知見を通じてその方にしかできないアドバイザーのような事をされている。ある方は大きな病を経ていたが転職先で英語力を生かした仕事で活躍されている。ある方は家庭環境も変わっていたが景気や嗜好の影響を受けない業界でやはり英語力を生かした仕事をされている。生涯食べるに困らないような資格取得を目指す方もいる。自分は自らの経験を生かして少しは社会に役立てるだろうと見つけた職種で希望を持ったが、その道は病で一旦ついえている。それぞれの環境下。会社を辞めたり辞める年齢に達した皆の共通の言葉は「これからどう生きようか」だった。そう、皆それぞれ次の人生を模索している。

NHKの「これからの生きがいを探すには」といったテーマのテレビ番組で脳科学者やカウンセラーが話していた。

・何にでも興味を持ったら挑戦する事。やり散らかすこと。新しいことにチャレンジできるのは脳が若い証拠。子供は何も恐れずになんでもやり散らかす。しかし社会に出てそんな思いは削られて「自分はなにやっても駄目だな」と思うようになる。それを取り払うこと。「子供の脳に戻ろう」。
・「自分は何でもできる」という根拠のない自己肯定感を持つこと。迷わずにチャレンジできるし、ポジティブに思っていれば失敗しても気にならない。
・新しい社会での人間関係を作る事、あるいは現在や過去の人間関係を見直して、また会いたいと思った人に連絡を取ってみよう。人間関係を大げさに捉えず「最近どう?」とニコりと笑ってポンと肩を軽くたたく感じで。(それを「ニコポン」と呼んでいた)

そんな内容だった。・・そうだな、年賀状のやり取りだけの長く会っていない学生時代の仲間の一人にさっそくハガキを書いて「ニコポン」をしてみようか。

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これからの時間、「スローな人生を生きる」。病床で得たその思いは今も変わらず確固たるものだ。では「スローって何だ?」と自問自答すると答えは容易に出てこない。趣味三昧?それは昔から今に至るまですでに実践中。そのまま隠居?それは避けたい。

スローとは、例えば四季を確実に感じることかもしれない、畑に植えた野菜が芽吹いた時の歓びかもしれない。ボランティアで人に「ありがとう」と言われることかもしれない。友人たちとの間で何か新しいことを始める事かもしれない。趣味の延長線上に何かが見つかるのかもしれない。有形なのか無形なのか、それも今は全く分からない。焦っても仕方ない。言葉が先行している「スロー」とはつまるところ「何かが見つかるまでの時間の旅、そしてそれを楽しむこと」かもしれない。

「今年は厄年だよ」、心づかいの深い友人に指摘され、家内に背中を押されるようにして、厄落としをしたのだった。厄はお大師様の阿闍梨護摩を焚き懸命に払ってくれた。・・病の事を考えると、毎日気分の浮き沈みはある。しかし無駄な一日を過ごしているつもりはないのだ。

「これからの自分を生きるとは」。好奇心を持ち、実践する気持ち、感謝の気持ちを持って、毎日は平凡でも楽しく過ごす。そんな小さな積み重ねを繰り返す。日々これ好日、そう願って心のアンテナを高くして、首を突っ込み世界を広げ知己を増やしていく。そんな普段目指している自分の行いを、更に進む事なのだろうか、と感じている。

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ずっとお世話になった。今の自分にはもう要らない旧い「友」。新しい「何か」が、これらの旧友に代わる日が来るように、日々これ好日で過ごしていくのだろう。