日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

性に合わぬこと

「三万すった」、そう友はタバコを手に諦め顔で戻ってきた。軍艦マーチが店外に流れだしていた。僕はその向かいのハンバーガー店で時間をつぶしていたのだろうか。彼に一度だけ付き合って店の中に入ったことがある。千円札を自販機に入れると手にした皿に数センチの銀玉が出てきた。ジャラジャラとそれを機械のトレイに流し入れた。手のひらでグリップを握りを右に回すと球が弾けだされてきた。ピンやチューリップの羽にあたりながらそれは下まで落ちて吸い込まれた。勇壮な音に反して玉は数十秒で無くなった。俺には無理だな、と思い店外に出た。

父親が世を去り半年以上経過した。様々な手続きがあった。父には僅かながらの残したものがあった。微額でも相続人に該当する家族親族と話し合い遺産分割協議書を作った。現金通帳と多くない株があった。嫌になるほどの書類を集めて手続きをした。

協議書通りに分割された。そこに現金は無かった。それは今後の安心の為に母に総てが行くようにしたのだ。自分の手元には僅かな株が来た。会社員時代、管理職になると自社株を買うようにと無言の圧を受ける。株主として経営に参画せよ、ということか。仕方なく毎月少額で持株会に入った。希望退職に応じ定年三年前に退職して持株会も退会となった。掛け金の累計よりそれは上まっていた。株価が上がっていたのは会社が世間的には評価されていたという事だろう。希望退職というリストラ策が評価されたのなら皮肉でもあった。

手にした自社株をどうしようとも自由だが自分はすぐには売らなかった。インサイダーに引っかかるのは嫌だった。自分の居た部門は無縁だと退職時には確認を得ていたが、単に小心者なのだろう。一年後に待っていたかのようにそれを手放した。その間はいつも株価が気になった。金額などたかが知れているのに株価の折れ線が気になった。ああ、昨日売ればよかった、などと思うのだった。株を手放したときにようやくホッとした。

今回の株も同じだった。証券会社のレポートによると父には数銘柄の株があったがいずれも負けていた。資産価値が三分の二程度になったものもあった。その会社が民営化されたのはバブルの時代で父は手を尽くして株を買ったのだろう。バブルも弾けて株価は下がった。リーマンショックもあった。父と彼の株について話したことは無かった。一回だけ、彼は言っていた。失敗したなぁと。

ネットのポータルサイトに「老後の生活資金シュミレーション」についての記事が多く出るのはそれだけ自分がその手のコラムを読むからだろう。57歳で会社を辞める時に平均年齢まで生きた場合のキャッシュフロウの試算をした。当時は見えずに今は見えてきたことがある。それは自分と家内、それぞれの介護費用だ。全く想定外の伏兵だった。人それぞれに体は衰える。介護保険制度で使える点数を目いっぱい使い日々を過ごしているのは母だが、父は世を去るまでの三年間は老人ホームだった。それらが貰える年金の枠内に収まるのかも不安だ。

僅かな株でも良い条件で売れれば幾ばくかの心の余裕にもなるだろうが、そもそも日々株価を見て一喜一憂するという事はストレスだった。ああ売り損ねた、と寝る前に思う事もあった。いつか又ブラック・マンデーが来るのではと怖かった。目覚めてすぐに「成り行き」で売却のボタンをクリックした。損なのか得なのかわからない。ただ心は晴れ晴れとした。

パチンコで三万円を十分間で失った友は何かを得たのだろう。故郷の金融機関に入行し今では理事をやっている。さすがにもうパチンコには手を出していまい。手を出さぬばかりか人様の資産運用の相談役だ。ギャンブルで大負けした大リーガースタッフの話題で世間は持ちきりだ。依存症だったのだろう。自分には怖くてできない。株もしっかり勉強すればよいのだろうがそれでもギャンブルと大差なく思える。運用に熱中するばかり会社のトイレに籠りきりでスマホ片手に売買ばかりしている人もいると聞く。生産性は落ちるだろう。何よりも心の健康によくない。

インフレの中現金の価値が日に日に下がるのをただ見ているのは嫌だが、結局手に余るもの、性に合わない事には手を出さないのが良い、と株を売却して思うのだった。本当にせいせいした。もう二度と縁を持ちたくない。

要らないものを処分して、心は明るくなった。性にあう事あわぬ事。それくらいは選びたい。

信じる事に決めた・福之記13

抗癌剤の治療が決まった時、自分は家内に犬用のバリカンを持ってきてもらった。病院の浴室で鏡を見ながら自分の頭を丸刈りにした。薬で毛が抜けるのなら自ら短くしようと。さっぱりした。が、毛根はなかなかしたたかで、意外にも抗癌剤に耐えた。しかしその後の脳への放射線治療は強力で、全ての髪の毛は無くなった。

その後多少は髪の毛は伸びたが、大砲の弾丸の様な髪形を維持している。寝ぐせもつかずドライヤーも不要。直射日光の暑さと冬の寒気は帽子で防ぐ。それ以外は全く気楽なのだった。自分で出来るだけバリカンを掛ければよい、と決めていたがどうしても後頭部はうまくいかない。ハゲのくせに生えているところはしっかり伸びる。一カ月で一センチ程度。結局床屋に行く事もある。

自分などどんな髪型になろうとたかが知れている。そんな気持ちで僕は自分と我が家の犬もカットしてきた。ただ彼は目の玉が大きくかつ鼻周りには菊の花の様に毛が生えるのでそこは細心の注意を払う。

我が家の犬は二代目だ。ブリーダーで放棄された保護犬だった。子犬から飼った初代もこの犬もシーズー犬だ。鼻がぺちゃんこで目が大きい。ユーモラスで間抜けな顔立ちが可愛いい。中国の宮廷愛玩犬だったという。

犬の毛は、伸びずに季節によって生え変わる、一方で抜け毛は無いがひたすら伸びていく、その二種があるようだ。シーズーは後者になる。鼻のつぶれた犬が好きなのでパグとフレンチブルドッグにも興味があった。が抜け毛が無い事は喘息持ちの自分には必要だった。その代り一から二カ月に一度のカットが必要となる。さもなくば犬はスターウォーズのチューバッカーになってしまう。綺麗なカタチを維持するために半年に一回はトリマーさんに出していたが後は毎月自分でカットしていた。犬の全てに触れるのだから皮膚の異常も見つけるし、なによりも幸せな気分になる。オキシトシンが自分を満たしている事が実感できる。一方で目の周りや排泄器官辺りのカットは細心の注意が必要で、大量のドーパミンが必要となる。自分はそんな幸せホルモンに満たされる。つまりは我が家の犬のカットは自分を幸福に導いてくれるという事だった。

初代の犬を最後にカットしたのはいつだっただろう。彼は脾臓に癌が出来て腹水が溜まったのだろうか、痩せているのにお腹周りが大きくなった。かわいそうでカットは出来なかった。毎月体を触っていたのにガンには気づかなかった。十二歳だった。後悔があった。身代わり不動よろしく自分の癌の再発を防ぐ為に彼が発病したのか、と僕には思えた。そんな事を二代目犬のカットをしながら思い出したのだった。

同じシーズーでもそれぞれに違う事が分かる。二代目は毛が固い。耳と尻尾の伸び方が遅い。そして足の骨などはかなりしっかりしている。触りながらそれを覚えていく。毛が逃げてしまうのはバリカンの歯が劣化したのかもしれない。自分は鋏でのカットに挑戦した。体を傷つけぬように櫛を通しそこから出てきた毛をカットするのだった。前回は嫌がって椅子の上で逃げ回った。二回目のカットの今日は大人しくしていた。

彼の目玉は黒くそして大きい。時に吸い込まれそうになる。カットされながらそんな目で大人しく自分を見ている。何と、歌を思い出してしまった。自分が17歳の時の歌だった。

♪ 貴女は僕の事を 信じる事に決めて ただ黙って 懐かしく 僕を見つめている

小田和正の繊細な歌詞と歌声、鈴木康博の美しいハーモニーが多感な時代を思い出させてくれた。二代目犬もオスだが、歌の彼女の様にだまって座っている。

・・どうやら彼も僕の事を信じてようと決めてくれたようだった。

信じてくれたんだな。これからもカットするからね。そう話しかけた。

雲間の菩薩 

樹林帯を抜け出すと灌木帯だ。随分と手を焼かせてくれた。崩れやすい尾根道を注意して進む。足場の目安を立て露岩に手をかけて体を上げた。それ以上高い場所はここにはなかった。朝から曇っていたが薄くなった空気の狭間がゆっくりと解けた。いったん緩むと呆気なく、その網目からこぼれる光が足元に転がった小さな標識を浮かび上がらせた。かつては柱に括り付けられてたであろう木の札は風で飛ばされたのか、塗料も禿げそこに書かれた山の名前も明瞭ではなかった。しかしよく見るとそこには先輩のペンネームが記されていた。辛うじて判読できた。

縞田武弥はそれを見てああようやくここまで来ることが出来たか、とザックを下ろし呟いた。背中から上がる湯気は登路の厳しさの証左だった。実際それは長い路だった。バリエーションルートではないが幾つもの選択肢があった。沢をつめ高巻いて、鎖を掴み草付きを踏んだ。それらを選び上り進めたのは山頂を逃すまいという思いだった。

無造作に転がっている手作りの山名標識をそのままにすることは武弥には出来なかった。武弥はそれをひっそりと岩陰に戻した。ただの山の名前の標識だった。山名は誰がつけたのだろう、五穀豊穣を願い足元に氏神の森があるのだから昔から尊ばれていた山なのだろう。それら多くの峰々の名前の源を調べた山の先輩の偉業を改めて武弥はかみしめた。先輩は誰も来ないような深い山にその名と自らのペンネームを併記した小さな山名標識を残していた。彼が踏んだ山頂は六千以上あり、手にしたであろう地形図が四千枚以上あると知った時、武弥を襲ったのは眩暈だった。

先輩はその豊富な経験をデータベース化し本にしていた。更にそれらを元にある遊び方を提案し同好会が出来上がった。会員の活動結果を冊子にする、そんな玄人の遊び心を持っていた。しかしご自身の体調からその遊びに終止符を打つと言われた。

岩陰に置いた標識はもう風には飛ばされまい。なぜなら武弥がそれを引き継いだからだった。とんでもない事をやられたものだ、と武弥は思う。実地調査。作業。更にその世界を遊びに変えるという発想。先輩の頭の中は無限に思えた。テントの山の夜に見る星空だと思った。それを受け継いた自分もまたとんでもない世界に足を入れたと気づくのだった。

幾十人もの読者が会報である次の冊子を待っている。武弥はその一冊目をようやく世に出せたことに満足を覚えた。それは山頂を踏んだ歓びにまじりあい、曇り空を形作る空気の粒子に溶けていく。しかしすでにほどけた空気の綾はさらに溶出し、わずかな晴れ間を作った。そこに何かが浮かび上がるのを武弥は見た。弥勒菩薩ではないだろうか。

半跏思惟像は説いている。道は照らした.あとは進むが良いと。しかし武弥自身の身もこれからも今まで通り健やかな日々でいられるかなど誰もわからないのだ。御心のままに。とすら言っているように思う。そう、菩薩は何も口にしない。ただ頭の中で思うだけだった。

テルモスの熱いお茶を飲み、武弥はザックを纏めた。浮石に足を取られぬように下りるだけだった。雲間に菩薩様を探したがもうそれは消えていた。ダケカンバを掴みザレを踏んで下った。振り返った時驚いた。空は何の曇りもなく足元には自分の影があった。それはひどく明瞭で、なぜか武弥は嬉しかった。とても嬉しかった。

図書の旅39  約束の国への長い旅

●約束の国への長い旅  篠輝久著 リブリオ出版 1988年

一本のレールが続いていた。それは壁に向かっていた。壁にただ一つある門を抜けると広大な敷地だった。そこにはレンガで作ったマッチ箱のような建物がいくつも整然と並んでいる。その箱はすぐにも倒壊しそうに思えた。中に入ると陰鬱だった。この地は北緯50度はある。冬でもないのに凍てついた。

ユダヤ人を初めてそれと認識したのは三十歳代だった。マンハッタンの街頭だった。黒い帽子、黒いスーツに伸ばしたヒゲ。何から何まで黒尽くめでとても分かりやすい姿だった。自分はイスラエルパレスチナの問題をしっかり理解していない。知っていることは戦後にユダヤ人が彼の地に建国したのがイスラエル、というもの。加えエルサレムユダヤ教イスラム教、キリスト教の聖地だという事だった。そして彼らが第二次世界大戦中には大量殺人されるという災禍を経ていることは知っていた。しかしそれを学ぶのは禁忌のように思っていた。

レンガつぐりの建物の中には焼却炉があった。人間一人が入るサイズだった。それがいくつも続いていた。さながらそれは死体製造工場に思えた。そこはナチス・ドイツが作った強制収容所だった。負の遺産として今は多くの人が訪れる。陰鬱な雰囲気に吐きそうになった。

アイゼナハはドイツ中部のチューリンゲンにある。住んでいたデュッセルドルフから車で五、六時間だったか。ワイマールやアイゼナハなどのゲーテ街道を家族で辿った。ドイツに駐在して最初の旅行だった。バッハの生地アイゼナハ、彼の墓のあるライプチヒは昔から自分の憧れの街だった。そして道すがらに立ち寄ったのがブーヘンヴァルト強制収容所だった。そこはユダヤ人ばかりでなく当初は政治犯の収容所とのことだったが戦争が進むに連れユダヤ人も連行されてきたようだった。

ユダヤ人から称えられてイスラエルの切手にまでなっている日本人が居るなど知る由もなかった。無理もないだろう、彼が名誉回復されたのは彼の死後の2000年なのだから。
今では当時の外交官、杉原千畝の名を多くの人が知る。外務省の意向を無視して日本を通過して第三国へ出国させる便宜を「通過ビザ発行」という形で図り、多くのユダヤ人をヨーロッパから日本経由で脱出させた。そんな方の名前を自分が知ってから十年経たないたろうか。テレビの特集番組でみたのだった。

この本はそんな杉原氏の行いと生涯を書いた本だった。言葉遣いと漢字に振られたルビが子供向けの図書であるとわかる。きちんと知ろうと思い手にしてみた。

第二次世界大戦で日本はドイツと同盟を結んだ。そのドイツではユダヤ人を迫害していた。ダッハウザクセンハウゼンアウシュビッツなどの多くの強制収容所で彼らは最終的結末を迎える。北海に面した国リトアニアの日本領事館ならばソビエトを陸路通過させるビザを発行してくれる。ユダヤ人たちはその知らせにリトアニアを目指す。領事は何度も母国の外務省にビサ発行是非を問うが許可するはずもない。人道的判断で彼は査証のスタンプを不眠不休で押し続けた。多くのユダヤ人がそれを手にしてシベリア鉄道経由で日本に入りアメリカや他の地へ逃れる。

外務省の意向に反した行いにより彼は戦後罷免される。そんな彼を感謝の気持で時間をかけて探し出したのは他ならぬイスラエルだった。多くの同胞を救ったと彼の地で称えられて切手にもなっている。日本での名誉回復は遅すぎた感がある。

上意下達は日本の組織を成立させるための柱であっただろう。上の命令には何も考えずに従うもの。そんな考えが不正会計、資料改ざんなどいくつもの組織の不祥事として報じられていた。会社は社会的信用を失い、失地回復のために多くの社員が会社を去った。自分が勤務していた会社もそんな企業のグループ会社だった。

正義を通すことは勇気が必要だ。それは疲れるし知らぬふりをすれば済む話だ。それではいけないと知りながらも右へならえと目を向けない。自分自身そんな烏合の衆の一人に過ぎない。自分はもう社会人ではない。正義を問われることもないだろう。しかし生きる以上は何かを判断していかなくてはいけない。何をよすがにすればよいのか、それを決めるのは自分だ。なにか軸が欲しい。そんな事を子供向けの図書が気づかせてくれた。

一枚の査証が多くの人を救った。指令に背き全てが自己判断。今自分にそんなことが出来るだろうか。

栄光は君に輝く

東北新幹線はなかなか列車種別が多く県庁所在地駅も通らないものもある。「はやぶさ」を選ぶと東京からは大宮だけに停まりその先は仙台までノンストップになる。栃木の県庁所在地・宇都宮も、福島の交通要所・郡山も、県庁所在地の福島にも停まらない。時速300キロを超えて走るのだから風景はたちどころに流れていく。東北新幹線は青森に向かって左側の窓際に座るのが好きだ。山の眺めを堪能できる。下り列車だと朝日を浴びて、上り列車だと残照を背に山が浮かび上がる。日光白根山男体山・女峰山、那須岳。福島に入っては安達太良山、盛岡を過ぎると岩手山と、既知未知の山々があっという間に右から左へ去っていく。福島駅を通過する手前で僕はいつも額をガラス窓につける。吾妻連峰がスッと立ち並ぶ姿は見どころだろう。吾妻小富士が手前にわかりやすい姿で立っていて、高山・東吾妻山・一切経山と山並みが続く。連峰の最高峰である西吾妻山山形県にまたがるので新幹線からは見られないがしばらくはそんな懐かしい山に目が釘付けになる。

吾妻連峰には車道が上がっている。磐梯吾妻スカイラインとよばれる観光道路だ。もう十年以上も前、五月連休に自分は友と共に裏磐梯からその道路をたどったことがある。車には登山用のスキーが積んであった。浄土平で駐車をしてスキー板の裏に滑り止めのナイロンシールを貼った。踵の上がるテレマークスキーだった。そして登山をした。吾妻連峰の東端のピークに立ちそして滑った。春のザラメ雪にテレマークターンが上手く決まり夢見心地、それは楽しい春の山スキーだった。

一帯には未だ登り残した山がある。またスキーでその山頂を踏みたいと思った。スカイラインが除雪されるとされぬでは労力に天と地の差がある。現状見込みを知ろうと福島市役所の観光課に電話をした。お待ちくださいと言われ保留になったが、その保留音がなかなか福島らしかった。・・・何処かで聞いたことがあるメロディだがすぐには分からない。スマートフォンに向かって口笛を吹いて検索させた。それは全国高校野球大会で流れる歌だった。「栄光は君に輝く」という題名だと知った。

何故福島らしいと思ったのか、堂々として元気が湧いてくるメロディが東北の人の勤勉さや実直さを表しているように思えたのだ。子供の頃家の二軒隣に福島県ご出身の方が住んでいた。家族ぐるみで懇意にしていた。奥様は元気者で優しい方だった。良く遊びに行ったが話し言葉は朴訥でよくわからなかった。そんな小母さんの立ち居振る舞いを感じさせる音楽だった。

なぜ福島市役所はこの音楽を流すのだろう。福島県でそんなに多く高校野球の常勝校はあっただろうか?思い浮かばなかった。ネットで調べたら謎が解けた。作曲者が福島市ご出身という事だった。今では福島駅の発車メロディでもあるようだ。東北大震災の復興を願って地元出身の作曲家・こせきゆうじ氏の元気のある音楽を駅メロに選んだという事だった。同氏はNHK朝ドラのモデルにもなったそうだが、あいにくそのドラマは見落としていた。

震災後の福島の風評は落ちてしまったが今は一時的だったと思いたい。地震で途切れていた常磐線も全線がつながり東京と仙台を繋ぐ特急が復活した。福島は確実に戻っている。役所によるとスカイラインの除雪・開通は未定なるもゴールデンウィーク前という事だった。どこの山に登ろうかと迷っていたがこの曲を聞いてしまったら行先は決まったようなものだった。

今シーズンはまだデビューしていなかったスキー板を出してきた。シールは大丈夫だろうか、少し早いが装備の点検を始めた。心は白銀の山に飛んで行った。懐かしい福島の言葉が思い出される。さて、しばらくは天気図に釘付けだろう。

滑り止めを付けたスキー板に踵の上がる締め具。スキーは登山の道具でもある。風の音と雪面を踏む音以外は何も聞こえない。ダケカンバ帯を超えるとアオモリトドマツが頭をのぞかせている。どう斜面を歩こうか・・。山頂が指呼の間となった。滑り止めを剥がすと後はお楽しみだ。テレマークターンが心地よい。(ある春の日に福島県・東吾妻にて)

 

フキ三昧

子供の頃、原っぱにたくさん咲いていた名も無い花を姉は無心に摘んでいた。それは小さな花束になり持ち帰ると母は「マーガレットね」と言うのだった。姉の嬉しそうな顔と花を摘む後ろ姿はよく覚えている。眼の前の路傍の草の前にしゃがんでプチプチと音を立てている妻の姿を見てそんなことを思い出した。

妻は目ざとくフキを見つける。流石にフキの芽はもう無くなり花も終わりかけている。大きすぎる花は天麩羅には不向きに思える。そこで今朝は芽や花ではなく茎を摘んだ。

すぐにそれは花束のようになった。茎を煮物にするのは美味しい。野生の茎はスーパーで見かけるような立派なものではなくその径は1センチに届かない。しかしそれでも十分にフキの香りがする。葉っぱは捨てるには惜しいほど大きい。葉は煮干しとともにゴマ油で炒めたら美味かろう、と頭に電灯が灯った。

日が落ちる頃自分はある作業に熱中していた。上手くいかないので苛立っていた。フキどうする?と言われたが不機嫌に答えた。「任せるよ」と。作業は目処がつきそうになかった。自分には珍しくまた明日と思ったのは腹が減ったからだった。部屋に戻ると今朝のフキの全てが食卓に載っておりぶっきらぼうだった自分を恥じた。

ふきの煮物と思っていたがそれはゴボウとシラタキと共に「きんぴらごぼう」になっていた。葉はなんと味噌とあえられていた。「ふき味噌」とは風流に思えた。

ふき味噌があるのならそれを舐めながら日本酒が進むだろう。しかし我が家には日本酒が置いてない。焼酎の紙パックがあった。ストレートでやろう。風邪をきっかけにして酒量を減らしてからはもう三ヶ月は経つ。お陰で悪玉コレステロールは正常値になった。ならば良しと今は週一二度飲むだけだ。この日は飲む予定では無かったが、ふき味噌にやられた。

フキのキンピラもふき味噌も美味しく食べた。自分は春の香りに満たされた。フキざんまいの夕餉をササッと作るのだから流石に妻は慣れたものだった。

姉が他界したのは早春だった。もう少しで蕗の季節だった。姉もそれを摘んでいたかは分からないがきっと逃したことを悔しがっていたかもしれない。フキの苦さは、人生の苦さかもしれないな、とふき味噌を舐めながら思う。美味しい春の香りをもっと味わってほしかったがそれは叶わない。季節が来ればそれをありがたく戴く事が自分たちにできる事だろう。

フキの葉をあく抜きして茹でて味噌とみりんであえたようだ。焼酎を飲みながら春を舐めるのは美味かった。

 

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桜並木の見沼用水

埼玉県の見沼公園あたりの風景を知ったのは誰かのブログだったろうか。いや、ランドナーというキーワードで検索したWEBサイトだったかもしれない。ランドナーとは今流行りのカーボンやアルミのロードバイクではなく、鉄のホリゾンタルフレームに泥除けのついたクラシックなデザインの自転車を指す。早く走る為の自転車ではなくゆっくりと旅をする自転車だ。そんな自転車の愛好会の会合が見沼の公園で開催されていたことを思い出したのだった。見沼の地は埼玉県大宮市、いや、今はさいたま市は大宮の東側にあるという認識だった。

東大宮に住む知人の家に行く所用があり折角行くのだから自転車で行ってみようと思った。自分の街からは片道70キロメートルある。自走の案はすぐに却下して途中の川口市あたりまでは車を利用した。川口には自分のランドナーのフレームを作ってくれた工房がある。見沼の名がつく公園は幾つもあった。しかしそれらはあるサイクリングロードで結ばれていた。埼玉県が「緑のヘルシールート」としてWEBサイトを作っている。パンフレットもあるようだった。時間的に工房は寄れそうになかったが地形図を見ながらコースの概要を考えた。

埼玉も大宮までの南北に走るJR線に乗っている限り都会の風景が続くがこうして少しだけ東にでも西にでも進めば田園風景が広がる。見沼川代用水路に沿って続く道はそんな中を進んでいた。水路は東へ西へと蛇行を繰り替えす。数日続いた雨天や曇天で桜は満開ではなかったがようやく先日辺りから咲いたのだろう。もう七分咲きだった。土曜日という事で散歩の市民も多くサイクリストも多かった。

見沼自然公園は大きな芝生もあり多くの家族がピクニックをしていた。時速18キロ程度で巡行していたランドナーをそこで停めて自分も休憩をした。笑い声が僕を包んだ。コンビニで買ったさもないお握りとペットボトルのお茶が何故こうも美味しいのかは分からない。

ルートは自然なカーブを繰り返して北上していく。道の左手に桜並木、右手には菜の花。桃色と黄色が自分を取り巻いて自分はランドナーに乗ったまま色彩に溶けそうな気持だった。春に包まれたのだ。それは夢の様にも思えるし、もしかしたら浄土の光景なのだろうかとすら思えた。

ニ十キロを超える桜の道を辿ったのは初めてだった。東武野田線を超えると素敵なルートを外れてしまい、また目指す東大宮駅もここでコースを西に取る必要があった。幹線道に出るとあとは消化試合だった。

この地に住む知人はある仲間内での会を主催し会報を作成していた。今回ご自身の体調を考えそこから退くと言われた。放っておくと会は自然消滅だった。後継者が必要だった。自分は手を上げて何人かに働きかけた。それが形となり新メンバーが集まり皆で新しい会報を作り上げた、それを彼に見せに行くのが目的だった。冊子を手にして彼は喜ばれていた。自分の作った世界が多少形は変われど途切れることなく誰かに継続される。それは嬉しい事だろう。

そんなリレー役を終えて、自分も帰路に着いた。埼玉は浦和に父方の伯父が住んでいた。小学生のころから何度も行った懐かしい地だった。帰路にその家を探し当てた。伯父が他界し義理の伯母はその一年後に亡くなった。七、八年前の話だった。懐かしい家にはもう違う標識が掛かっていたが古びた町内会の立て看板地図には懐かしい自分と同じ苗字が残ったままだった。外見こそ父に似てはいるが穏やかだった伯父、それに社交的だった義理の伯母の顔が浮かんだ。笑い声すら聞こえそうだった。

枝道に入ると再び桜が続いた。春爛漫の日だった。そんな日に途切れかけていた何かを繋ぎ、昔日もまた当時の空気と共に目の前にあった。小さな自転車の旅は風景という生地を時間という糸で縫っていくものだ、と改めて知った。色彩溢れる今日のその風景は桃源郷なのだろうと思った。

桜並木と菜の花畑の中を走った。色彩が自分を包みこみ僕は春に溶けていた。