機関銃を持って「快感」といえば薬師丸ひろ子だろうか?しかし先日感じた快感はそれではない。
職場には岡山出身の職員さん、広島出身の職員さんがいる。彼女たちと話すときには、心地よく広島の言葉が出る。しかし彼女たちも横浜の生活が長い。こちらの言葉も板についている。
自分の言葉はフュージョン。両親が生まれ育ち自分が生まれた地である香川、中高六年間過ごした広島、大学時代の友が住む山口、このあたりの言葉がベースになっている。不動だ。その上に最も長く住んだ横浜の言葉が、その上に仕事で現場の人と仲良くなるうちに身についた伊豆の言葉が乗っかっている。
職場で彼女たちと話すときは、自分も無意識に香川・広島・山口のミックスジュースのような言葉が出る。勝手にそれを「瀬戸内海弁」と呼んでいる。家内は東京出身だが、いつしか二人の娘たちも自分の怪しげな瀬戸内海弁を生活の切れ端で引き継いでいた。彼女たちとそんな言葉で話すのは、嬉しい。
方言は美しい。懐かしの土地や未知の地を想起すらさせてくれる。青森の山への登山では現地のご老人の話す津軽弁は理解がほぼできなかった。ただ、かえってご老人の表情を見て言いたい事を推量し、周りの風景と照らし合わせ「言葉が躍っている」のを見るのは楽しかった。
ドイツに駐在していた頃社内のミュンヘン出身の現地人が言っていた。旧東ドイツや、バイエルンの言葉はやはりこことは違うと。「この街デュッセルドルフは”ZDFドイツ語”だからなぁ」。いかにもバイエルン第一とでも言いたそうだった。
ZDFはドイツの公共放送局。日本で言えばNHK。標準語の意味だ。
日本中全国民が、綺麗な日本語(NHK日本語)しかしゃべらなかったらどうなるだろう。自分にはどうにもつまらない国に思える。クレオパトラの様に非の打ちどころのない美人は鑑賞には向いているがどうにも平べったく思えまいか。やはり人間あばたありえくぼあり、聞き取りずらい言葉あり。そのほうが素敵だと思う。
その意味で職場の三人での会話は楽しい。迎合する必要もない。しかし皆こちらの生活が長く、どこかで「ほころぶ」。それも自然だろう。
久しぶりの高校時代の友人と電話で話した。約40年振りだった。「筋金入りの広島弁」がそこにあった。懐かしい友の声と息継ぎ、間の置き方に昔日の友人の顔が浮かんだ。たちどころに自分の中でセイフティレバーは解除され、連射モードになってしまった。びゅんびゅん飛び出る「広島弁」。相手が正確な広島弁で返してくるのでこちらも即座にパラペラム弾の弾倉を差し直し射線変更、的を得た広島弁が錆びた弾丸と共に機銃の様に口から飛び出ていた。
「われ元気じゃった?」
「元気じゃ。うもうやっとるよ。われは?」
「ああ、しよるよ。今日はぶちたいぎかったけぇ帰り遅なった」
トークは心地よく続いて、再会の約束をして電話を切った。満たされた気持ちでこう思った。「広島弁の機銃連射、ぶち気持ちええわ」。
方言の機関銃連射が日本中でおこり、NHK日本語が放逐される。打つ弾は美しき我が故郷の山河に根付いたことば。機関銃の快感を皆が感じる。その時に日本の地方創生は一歩前進しダイバーシティは一皮むける、そんな風に思うのも痛快だ。