日々これ好日

山や自然、音楽が好き。そんな私は色々な事が起きる日々の中で、好き日を過ごす事を考えています。

都会の終電車

都会の会社員。遅くまで仕事。コロナ前なら仕事帰りにちょっと一杯。減らない仕事量、不条理に思える会社の指示をネタに、不遇な我が身をネタに、尽きぬグチと話で気づけば終電。そんなことも身に覚えがあるのではないだろうか。

もう会社員を離れた自分。今何故か、日付が変わろうとしている電車の中にいる。コロナ禍で在宅が増えたのか電車に乗るとその人数は自分の知る往時のものほどでもない。それにせよ満員の半分か六割がたの乗車だった。

今日は飲み会があった。以前の会社の同僚二人との飲み会。彼女たちは自分が結婚した時期に入社し、その後は何だかんだとずっと仕事をともにしてきた仲間だった。

三十年以上の知り合いということになる。会社人の頃は会社に九時間から十時間居たわけで通勤二時間としても、半日は会社と通勤。睡眠時間を除くと、家族の顔を見るよりも長い時間を会社の同僚と過ごしてきたことになるのか。辛うじて週末と休日で帳尻合わせだった。

にわかには信じられないがそれはかなりの時間なのだ。

話題は尽きなかった。苦労したことも失敗したことも、お客様、出会った方々との豊富すぎるエピソードも、全ては笑い話になった。決して会社だけの人間にはなるまい、自分の楽しみは他にある、と週末の趣味に没頭していた自分でも、好まざるともやはり会社生活のウエイトが重かったことを改めて感じるのだ。

気づけば時計は進み、五時間以上経過していた。駆け付け二杯の生ビールは即座に消え、紹興酒のボトルは空となり、飽き足らずに続いたグラスがゴロゴロ。豪快に呑んで豪快に笑った。こんなに飲めるものなのか!話すことはまだまだあるように思うが日付が変わってしまう。今日はありがとう、また次回ゆっくり逢いましょう、と、駅で別れた。

往時より人は減ったがまだまだ街にも駅にも人が沢山居る。この時間帯の電車は酔っ払いも居たりで「非常停止ボタンが押されました。安全確認で停止します」のアナウンスが流れることも多い。当時もその都度イライラしたが、そんな生活を離れた今、加齢に加え病の後遺症なのか、ストレス耐性の減った自分にはもう耐えることもできない。

良くぞこんなふうに何十年も過ごしたことか、と改めて呆れてしまう。耐えられたストレスも貯まりに貯まり、ダムの決壊のごとく自分の場合それが病という「分かりやすいカタチ」でありがたくもない恩返しをしてくれたのかもしれない。

そんな生活から離れることが出来てつくづく良かったと思う。

減ったとは言ってもまだまだ人の多い終電車。幸いに非常停止ボタンは押されなかったようで、勝手知ったる地元の駅はもうすぐだ。

何十年来の仲間たちはまだ若く、もう少し第一線で活躍するようだ。これからも貯まっていくだろうストレスが爆発せぬよう祈るばかり。いやすべてを笑い飛ばせる彼女たちはうまく吐き出してやっていくことだろう!それはよかった。素敵な時間を過ごさせていただいた長年の知己に感謝。そして次回が楽しみでならない。

そうだ、今度彼女らと会うときは、遅い電車にならない時間帯にお願いさせてもらおう。都会の終電車は、これをもって終わりです。

調子よく飲んでいたら…。おっとストレスなきように!



六地蔵に何を想う

信州の名山・高妻山に登ったのは6月だった。雪はあまりないだろう、そんな思いで雪に対する備えもなく入山したのだ。昔から踏まれているルートはいったん戸隠山からの稜線にとりついて一不動の避難小屋に出る。そこから稜線を北北東に進み五地蔵山で90度向きを変え西北西に登っていくものだ。しかしなかなかの長丁場という事もあってか長野市の手により新しい登山道、牧場から直接五地蔵山まで登る短いルートが開かれた。所要時間から今ではこちらのほうが主流かもしれない。自分もその新道を選んだ。ブナ林の中を心地よく登っていくルート、六月のブナの林の美しさを表す形容詞を自分は持ち合わせないが、空気を通じて自分自身が緑色に浄化される気がした。体が光合成をしているという気持ちだった。

五地蔵山に出て初めて前方に高い、高妻の山頂を見ることになる。一不動と言い、五地蔵といい、襟を正したくなるような、抹香臭い名前が続く。この新道はいきなり五地蔵まで端折ってしまうが、昔ながらの路を辿るとなれば、一不動、二釈迦、三文殊、四普賢、五地蔵、六弥勒、七薬師、八観世音、九勢至、十阿弥陀 と丁目石のような仏教ゆかりの地名を登っていく事になる。十の阿弥陀如来で満願成就、山頂だ。

八合目ともいえる八観世音にきて足が止まった。ピラミッドのような山頂の尖り具合が見事であるがその下僅か数十メートルが雪の壁だった。よく見ると豆粒がいくつもその雪壁についている。人だ。やや進んでもその人影は一歩も進んでいないように見える。九勢至に至り、状況が分かった。余りの雪の斜面に皆足がすくんで、前にも後ろにも進めなくなっているのだった。

少しだけその雪の大斜面に足を入れてみた。これは無理だ。10本爪以上のアイゼンとピッケルが必要だった。6月の2300m峰を甘く見ていたのだ。斜面の中ほどを下りてきたピッケル・アイゼン姿の男性が目の前で足を取られ、「あーっ」と声を出して数十メートル滑落し、視界から消えた。あの声を忘れることはできない。

結局雪田の登攀を諦め回れ右をしたが、後続のパーティがひょいひょい残雪の端にあるネマガリダケをつかみながら登るのを見て、自分もそれに続き強引に攀じた。短い難所を超えるとそこはもう山頂の一角で、まさに阿弥陀様が待っていた。口から飛び出そうな心臓をおさえながら、そんなありがたい思いだった。

実態は単に季節を読み間違えた甘さ・気の緩みに起因するものではあっても、これは横着して五地蔵まで端折ったからバチが当たったのか、きちんと一不動から登れば良かったのか。一瞬そんなことに考えが及んだのだった。この難路を修験道ととらえ、合目ごとに宗教的アイコンを置いた昔の人の気持ちがわかるような気がしたのだ。

以来、道祖神や道端のお地蔵様を見る度に足が止まり、考えをめぐらすことが増えた。何故ここに道祖神がいるのか。なぜお地蔵さまは複数でいることが多いのか・・。

地域地域の歴史や習俗によるのだろうか。しかし、長い年月の風化によりその顔の判別もつかなくなった石仏とはいえ、えてして赤いおべべを着ていたり、赤い毛糸の編帽を被っていたりと、地元の人の慈愛と、深いつながりを感じさせる。

まとまった石仏は六体のお地蔵様が多い。古い街道筋でも、寺の参道でも見かける。何故六体なのか。祖先の菩提寺へお参りに行ったついでにその住職さんに聞いてみた。これは六道と呼ばれるもの。天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道と申します。お地蔵さまはそのそれぞれで人間の苦悩を救済して下さるのです。そんな説明だった。

お地蔵様をよく見ると、柔和で、それぞれの表情も微妙に異なる。いずれも優しさを感じさせる顔ばかりだ。自分が高妻山で滑落せずにすんだのも、病を経て今に至っているのも、誰かが救済してくださっていると考えると、色々なことに感謝が及ぶ。

今度野を歩き、地元から素朴に愛されてきたお地蔵様を見るならば、自分はゆっくりとお礼を言う事だろう。更にはこれからもお世話になるだろう六体の尊顔を、ゆっくり拝見したいと思う。そして六体以外の全てのものに、謝意と、朝晩の挨拶くらいはしなくては、と思うのだ。何かいいことがまた、ありますように。

路肩や寺の六体のお地蔵さま。謝意と挨拶をしていこうと思う。

 

脳腫瘍・悪性リンパ腫治療記(23)「血液内科にて化学療法(6)」クール2 点滴漬けが続く

第2クールの治療は第1クールと同様な時間軸だ。ただし抗ガン剤は一種類減る。(プロカルバジンの内服はない。)月曜日に分子標的治療薬・リツキシマブ。火曜日に細胞増殖抑制剤・メソトレキセートとDNA阻害剤・ビンクリシチン。これらが終わり次第腎機能保全のためにロイコボリン、ゾルデムとメイロンの点滴。

リツキシマブ点滴は事前に抗アレルギー剤服用があり、副作用の激しい脱力感で数時間は動けなくなる。明日からのメソキソトレート点滴に向けて、点滴が終わる夕方には再び導尿間の挿入だ。相変わらず大量に排尿させる必要と、定期的な尿成分の確認が必要なのだ。今度の挿管は若い先生だった。これまた上手く、えいやとばかり管が挿入された。管内径2.4㎜。入れられるほうもたまったものではないが入れるのも大変なのだろう。挿入が終わると再び意図せぬ放尿が始まった。

これに3日付き合うのか。前回と同じだから、ただ耐えるだけ。導尿管をすることで膀胱に尿が溜まることなく尿パックにスルーして流れていくのだが、面白いことにそれでも残尿感や尿意を感じることがある。いくばくかの尿が膀胱に残っているのだろうか。しかしこれもコツがあった。導尿管を少し上下左右に動かして、上手く膀胱の中の尿を管の中に入れてやる。するとそんな不快感は消えていく。大したもんだ。なかなか悪くない。

幸いに点滴が終わるとシャワーが認められた。気を遣うのは二の腕から挿入されている点滴用カテーテルで、ここは防水のラッピングを施してもらう。一方で股間には導尿管。チューブが排尿器官の先端からだらりと伸び、尿袋は扉の向こうへ。こんな風にシャワーを浴びるのもつくづく「冴えない」図柄だとおもう。しかしなのだ。シャワーは暖かいし気持ち良い。人間の欲望は、自己を取り巻く環境が過酷になればなるほど周囲をそぎ落としたエッセンシャルなものになるのだと、知った。

金曜日の夜に導尿管は外された。自由だ。ベッドからの寝起きも、移動も、シャワーも随分と楽になる。今度は第3クールの第1週目月曜夕方まで、導尿間はさようなら。これで尿こぼれの可能性もなくなるので紙オムツを履き続ける必要もないのだが、何かしらの不安があり脱ぐことが出来ない。脳外科以来、紙オムツは長い友達だ。

翌週にはいよいよCTによる全身スキャン。解像力を上げるために造影剤を併用。すべて経験済だ。

CTの結果は良好だった。すでに血液内科入院時のCTでも腫瘍が切除され残腫瘍がほぼないことは確認できていた。今度は2クールの抗ガン剤治療の後だ。今回脳腫瘍のあった部分は、入院時にはむくみと空洞であったがそれが縮小されていると、画像で示していただいた。全身スキャンはもちろん多臓器への転移を確認するのが目的だが、これも特に問題ないという所見だった。

「2クールで確実に効果が出ましたね。残り3クール、その後に続く放射線プログラム等、頑張っていきましょう」ドクターの励ましが、嬉しい。

2クールが終わり、結果も目下良好。小さな、いや大きなご褒美が待っていた。土曜昼から、第3クールが始まる前日の日曜夕刻まで、自宅に戻って良いという事だった。二の腕のカテーテルはぶら下がったままで、病院でのシャワーはきちんとテープで防水するが、自宅ではサランラップをしっかり巻く、という原始的な対応方法だった。しかしそのやり方も実は病棟でも少し前まではシャワーの対応などで行っていたという事で簡易ではあるが効果は実証済だった。

久しぶりの帰宅か、嬉しい。脳外科に入院してから2カ月が経っていた。コロナ下で家内と病院で顔を合わせることも限定的だった。抗ガン剤の影響で白血球の低下があるためジーラスタ皮下注射を行う。これで白血球値を戻すという。しかしそれでも白血球値はまだ低めなので、感染予防のために刺身などは控えるように、と言う事だった。病院の外に出ての食事か。何を食べるか、楽しみで仕方ない。病院の食事は決して不味くはないが、「娑婆」の魅力には勝てないのだ。多少の後ろめたさもあるが、アルコールがOKというお墨付きも嬉しかった。

迎えに来た家内とタクシーで戻る。家の玄関を開けると犬が人待ち顔だった。全てが懐かしかった。ここに自分の生活があった。しかし、今は仮の場所だ。ほんのひと時の、里帰りだった。

 

未来の街って、何だろう。

先日学生時代の友人と会う機会を設けた。40年来の友人になる。久しい再会は懐かしい街の訪問だった。

様々な昔話や今、自分たちの年齢が抱える課題などで話題は尽きない。楽しいときは一瞬だ。友は運転免許を持っていないが、老境に入った親の事を考え、その取得を視野に入れているようだった。・・でも、運転免許は本当に必要なのだろうか。こんな話題が出た。

「そういえばさ、自分たちが子供の頃の「未来の街の図」てさ、車は空に浮かんだチューブを走っていたね。もちろん運転手はいなくて、渋滞の無い中を自動運転だったね。でもまだ来ないね、そんな時…」。

確かに、それが手塚治虫なのか、星新一なのか、ダニエル・キイスなのか、はたまたHGウェルズなのか、誰の手によって描かれたものかは記憶にない。文章だったのか、絵に描かれていたのか、それも曖昧だ。しかし、高度に発達した社会ではもはや建築物も空中に浮遊し、自動制御の交通機関が渋滞もない世界を動き、人間は時空をも超えたトランスポーテーションも可能だった。彼らが描いた未来図は、そんなものだったと記憶する。

自動運転は人工知能の発達が前提になるだろう。その人工機能で動くモノがロボットだ。初めはコマンドを忠実に実行していただけの機械も、人工知能により自律的な判断が行えるようになった。彼らがそう動作をしようとしてもその過程で何か物理的な障害に触れては仕方ない。そこでセンシング技術がモノをいう。センサーの技術に加え高精度なステッピングモーター‥さまざまな技術の集積体がロボットであり、そこに高度な演算処理能力が加わることで人工知能も付加された。

そこまでいかずとも、現代社会のロボットは既に様々な分野で活躍している。自動車メーカーの作ったヒト型ロボットなどはいかにもアイコニックな一例だが、今や沢山のロボットに自分たちの生活が囲まれていることを感じる。勝手に床を動く掃除機など、確かに自分たちが学生の時代には想像もつかなかった。つまらない話だが、機雷や地雷の撤去にもロボットが駆り出される。ミサイルも目標に向けて軌道修正しながら飛翔する。医学においても、内視鏡手術や脳外科手術など、繊細で精密な動きが求められる箇所には支援ロボットが進出している。実際昨年の自分自身の脳腫瘍摘出手術でも、もしかしたら、ロボットのお世話になったのかもしれない。ロボット技術が無ければ今僕はここに生存していなかったかもしれない。高齢者施設でも、利用者さんの体の具合に応じて人間ではなく機械が入浴支援をしてくれる。「ロボット浴」と施設では名がついていた。自分が今こうして書いている原稿すらも、タイプミスを探し出すのにはもう一度口に出して読みあげるよりも、ワープロソフトで自動朗読させたほうが効率が良い。

ありがたい話で、想像もできない程の進化がこの数十年にあったのだ。イギリスの産業革命が当時の世界に与えた波は教科書に載るほどのものだった。今の変化はマグネチュードは小さいかもしれない。が細かく多岐に及ぶ便利さの進歩という点では、ロボット技術はこれもまた大きな革命だろう。そんなことすら言われて久しいが、その時点からさらに進化している事を実感するのだ。

先日家内ととあるファミリーレストランに行った。すると廊下の奥から「ピーッ、ピーッ」と物音がして、見慣れぬ物体がそろそろと進んできた。高さは1メートル40センチくらいだろうか。形はオバQ(お化けのQ太郎)といったヌボーっとしたものだが、その胴体は棚になっている。よく見ると幾段のも棚には出来立てで湯気を上げている料理が載っているのだった。

「ああ、配膳ロボットか!!」

家内と顔を見合わせた。つまづかないように、人やモノに衝突せぬように、それはセンサーをフル稼働させながらゆっくりと通路を進んでいる。とある机の角で右折して、止まった。「あぁ、来るところまで来たな。」思わずそう思う。配膳くらい笑顔とコミュニケーションが欲しいよね。そんな場でロボットの必然性は何だろう。強いて言えば、一台で多くの皿が運べる事だろうか。いや、これ一台で従業員数名分の役割を果たすのか。

お店の方に頼んで配膳ロボットを見せてもらった。「当店で実証実験中なんですよ」と言われる。ロボット君の上部はタッチスクリーンになっていて、話しかけるとスクリーンに描かれた猫の顔がしゃべるし、撫でてもスクリーンは笑う。「コミュニケーション能力、忘れていませんよ。」そう言いたそうだった。

別の日に見たテレビでは、光合成を行うシアノバクテリアに注目し、それを用いた建材や塗料で建物を作りたい。もちろん光合成による二酸化炭素削減がゴール。そう語る小学生が取材されていた。温暖化にくさびを打つ、素晴らしい話だ。

友と話した「空中浮揚をする街で、チューブの中を自動運転する車」も、今の技術と、熱意ある若い世代の中で、これではあながち絵空事ではないのかもしれない。自分がこれからどんどん老境に進んだとき、何が自分を待っているのか、とても想像もつかないが楽しみでもある。しかしこれ以上の便利さは自分の中では浮かばない。もう今でも十分なのだ。未来の街は快適さの追求であるとすれば、もう今は未来なのかもしれない。今あってほしいものは「渋滞がない世界」そして「時空を超えたトランスポーテーション」くらいだろうか。まだまだアナログだった懐かしいあの時代には、人間同士との熱い交流があった。そこに戻りたいな。便利さだけは今のままで、そこで友人とあたかも初めて会ったように再会し、若き家内に再会出来たら、それはいかにも痛快だ。

そうそう、欲を言えば「全ての難病を完治させる先進治療」も欲しいかな。…しかし待てよ。自分は唯の動物に過ぎない。この体は単なる水分と炭素の化合物。いつかは器官も休止し、終止する。それが定め。そればかりはロボットでも若き英知で発達した科学でも何も出来ない。もう今でも充分便利。だから、それ以上の想像は頭の中でとどめるのが一番なのかもしれない。

そう、未来の街は、頭の中の街という訳だ。

 

こんな絵が未来の街だったと思うのだ。未来とは何なのか、こうして絵を描く限り、生活の快適さ、便利さの追求だったのだろうか、と思う。すると今は既に未来なのだろうか?



こんな猫ちゃん顔が突然テーブルにやってくる。コミュニケーション力もある。なるほど、これが、未来か。

 

大パイプか、ポジティフか。爪で弾くか?

一人の作曲家の一つの作品が幾通りもの楽器で演奏される。狙いは楽器の表現力の違いを味わおうというところだろうか。

しかしそんなふうに演奏される作曲家といえば誰だろう。自分にはバッハ、しいて言えばスカルラッティ位しか思い浮かばない。バッハには数え切れない程の鍵盤曲がある。もともと教会のオルガニストであったバッハは大量のオルガン曲を書いたし、クラビィア曲もまた同様だ。

当時存在していた楽器は、空気でパイプを振動させるパイプオルガン、そして弦を爪で弾くチェンバロハープシコード)の2種類しかない。弦を叩いて音を出すハンマークラヴィーア(ピアノ)が世に出るのはまだ先の話。

現在バッハのクラビィア曲はピアノで演奏されるのが主流だろう。現代ピアノ。華麗できらびやかなスタィンウェイでも、硬質でもあり柔らかくもあるベーゼンドルファーでも、バッハの音楽は素晴らしい。しかしこれらをピアノではなく当時のチェンバロで、そしてオルガンで弾こうという試みは今に始まったものでもない。

実際自分も初めてピアノで接したあらゆるバッハの曲を、異なる鍵盤楽器で聴くことで新たな魅力を味わうのだった。好奇心をこれほどくすぐられる事はない。オルガンにはオルガンの、チェンバロにはチェンバロの良さがある。異なる楽器で聞いてみると、あれ?と思う。フーガの線が明確だ。ゼクエンツの変化に彩がある。そしていつの間にか対位法という簡易でいながら複雑な、壮大な織り物の中に自身は巻き込まれてしまうのだ。それぞれの楽器の持つ音の特性でその織りは異なるが、いずれも魅力に満ち溢れる。聴き馴れた音楽に発見があるわけだ。

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「色々な鍵盤楽器で聴くJSバッハの魅力」そんな演奏会が近所のコンサートホールで開かれた。

ホールに位置する巨大なパイプオルガンに目を奪われる。ステージ前には小型のポジティフオルガン、そしてチェンバロ。この三台でバッハの音楽を味わう、そんな企画だった。それぞれの音色で感じるバッハの音楽、そんな事をまさに聴衆に解りやすく伝えたい。今日の演奏会の演者、大塚直哉氏はそう考えて3台の異なる楽器を用意してバッハのプログラムを選んだのだろう。

演奏会のパンフレットに演者の大塚氏は書いている。
・18世紀の優れた作曲家であり鍵盤楽器奏者であったバッハは楽器にも通暁し、楽器製作者との間での改良のやり取りが多かったこと。
・またペダルのついた大オルガン、小さな箱型のポジティフオルガン、そして弦をはじくチェンバロ。それぞれの音色と魅力を楽しんでいたのではないか。
・そんな違いを味わっていただきながらバッハの響きをあれこれ楽しんでいただきたい。

実際演奏が終わった後でのトークの時間では三台の各楽器についての仕組みの説明に続き、音のタッチ、出色などの実演があった。同じ音でも響きも違うし残響も異なる。選曲、演奏。そして解説も楽しめた、とても好企画の演奏会だった。

(2022年5月24日、ミューザ川崎シンフォニーホール 大塚直哉氏。演奏曲 ポシティフオルガンBWV860,691,チェンバロ846,1004/5.パイプオルガン641,552)

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大塚氏ではないが、自分もバッハのクラヴィア・オルガン曲それぞれ一曲選んで三者三様の音の旅をしてみた。

音の成り立ち・・空気を押し出しパイプを振動させるのか、弦を爪ではじくのか、弦をハンマーで叩くのか。それぞれの音色の違いは何処にあるのか。音色か、アタックか、音の持続性か、落ち着きか華やかさか、柔らかさか。全てが異なり、全てが素晴らしい。皆さんのお好みは、どれだろうか。

・クラヴィアの為に書かれたバッハ平均律クラヴィア曲集上下巻全48曲(合計96の前奏曲とフーガ)の中からマイベスト3に入る下巻第12曲(BWV881)の前奏曲・フーガを聞き比べてみる。

チェンバロで https://www.youtube.com/watch?v=e2IeRFxTKSA (演奏:グスタフ・レオンハルト
ピアノで https://www.youtube.com/watch?v=oZQQxIXiqN8 (演奏:アンドラーシュ・シフ
オルガンで https://www.youtube.com/watch?v=3n1n_uiYrTY (演奏:ルイ・ティリー)

・オルガン曲として書かれた壮大な幻想曲と堅牢なフーガが秀逸なBWV542を聴き比べる。地を揺るがすかの如き低音に息の長いオルガンの音を、弦を使う鍵盤楽器で如何に対応するのか、興味は尽きない。

オルガンで https://www.youtube.com/watch?v=CBPrSj8E1Fo (演奏:サイモン・プレストン)
チェンバロで https://www.youtube.com/watch?v=DAmgeYjgfyk (演奏:パワー・ヴィックス)
ピアノで https://www.youtube.com/watch?v=QJUs6gRf-Ao (演奏:ダニール・トリフォノフ

個人的にはBWV881のオルガン版とBWV542のピアノ版が心に染みる。どちらも滅多に聴く事のない組み合わせだからだろうか。

まだまだ未知の鍵盤曲が沢山ある。既知の曲でも奏者と録音により、そして大きなパイプオルガン・ポシティブオルガン・チェンバロ・ピアノ。楽器がこうして異なるだけでも、大きな発見に満ち溢れる。全く知らない事ばかり。これだから、止められない。

壁面の大オルガン。ステージ上にはチェンバロとポジティフオルガン。ポジティフオルガンは椅子に送風機構が組み込まれていて胴体の小さなパイプを鳴らすと言います。興味深いのです。

 

大地に間借りも悪くない

先日虫干しした古いテントが話しかけてきた。

「折角ならこんなコンクリートの上でなくて土の上に張ってよ。」

そうか、ならば行くか。6月もほど近い日だ。気候も良くなったし、何よりも入梅前の好天だ。平日に車で二時間半も走ると意外に遠出ができるものだ。

そこは好きな山の展望が得られる場所だった。

まだ日は高くテントの中はたちまち温室のようになる。僕は持ってきた双眼鏡で見える山々をもれなく検分する。ぐるりと自分が踏んだ峰々が並ぶのだ。稜線のそこかしこに懐旧があった。日が傾くと思いの外に空気が締まってきた。念の為にと持ってきたフリースを着こむ。はやセーター姿の家内は犬にも温かい胴着を着せてやった。

テント泊は一昨年までは毎年当たり前の話で特段どうもない。がそれは登山での話。登山と離れ、こんな風に家内とテントで寝るのは何十年振りだろう。ファミリーキャンプ、今ならそう言われるだろうか。確かに25年以上前に家内と娘達とともによくキャンプしたものだった。あの頃は子供も小さく自分も若かった。大きいテントを平気で山に持ち上げて幕営した。それは毎夏の楽しい家族行事でもあった。バーナー一つで作る山の料理は大したものではないがそれでも皆喜んでくれたのではないか。子どもたちは巣立ったが彼らには何らかの影響を与えたのか、その一人はおかげで昨夏ソロキャンプデビューしたよ、と連絡を寄こした。

還暦を迎えようとする夫婦とシニア犬が30年前の古いテントで時を過ごす。

ランタンなど昔は重くてホヤを壊さぬよう扱いも大変だった。しかし今は軽くて操作に気を使わないLEDがある。シングルのガソリンストーブはとうにガスに代わったがそれすら持ってこなかった。テルモスにコーヒーをいれてきただけ。お手抜きの今日のメニューは下界で買ったものを食べるだけ。それでもいいのだ。気負わずに、のんびりやる。

自分の気まぐれなリクエストに嫌がらずに付き合ってくれる家内と犬には頭も上がらない。

夜露に濡れるテントから頭を出すと空から星が降ってきそうだ。都会では味わえない空気感。

天に、地球に、家内に。そして自分の体にもありがとうだ。なにせ一年前はまだ放射線と点滴の日々だったのだから。

チタンマグカップの安ウィスキーもなくなった。ナイロンの「旅の家」で大地に間借り。こんな旅の形は、悪くない。シュラフに潜り込む。なんと素敵な夜だろう。

西日を浴びる「旅の家」。家内とワンコ。一族郎党の家だ。

夜間星空を見に外に出てみる。ほのかなLEDランタンでテントがぽっかりと闇夜に浮かび上がっていた。




35年間の相棒、愛すべき旅の家たち

梅雨入り前のひと時は湿気もさほどなく好い天気ですね。いや、しかし暑い位です。

キャンプ、35年以上やっています。始まりはバイクキャンプ。バイクは力持ちなので大き目のテントを200㏄のオフロードバイクに積んでは林道ツーリング。名もなき林道の片隅で、ある時は流木豊富な河原で、ある時は海岸の砂浜で、季節を問わずに泊まりました。

登山に軸足がすぐに変わりました。こちらは人力の旅ですのでソロテントが欲しくなります。当時の最軽量を登山道具店で購入。南アルプス中央アルプス、八ケ岳、奥秩父奥多摩、丹沢、谷川山系、数えられない程の縦走のお供でした。しかしテントは進化します。20年も経つとさらに小さく軽くなったソロテントが出ました。同時に体力も低下しました。加えてこの頃からようやく北アルプスが行動視野に入った事もあり、新たに購入。登り残していた南アルプスに加え北アルプス、奥利根、東北・飯豊・・。これ以上軽いものは、ツェルトしかありません。

初代テントはモンベルのムーンライトIII。今でもカタログに載っているロングラン商品です。四隅の金属棒をジュラルミンのポールに挿入し、その骨組みにテントを吊り上げてフライシートをかけるだけ。前室はオプションでした。「月明りでも建てられる簡単なテント」それが商品コンセプトだったと思いますが、まさにその通りでした。バイクキャンプに長く使いましたが、無謀にも登山にも使いました。木曽駒ヶ岳や奥秩父など。この中で家族4人でオイルサーディンでしたが、それも楽しいファミリー登山でした。また友人との白馬縦走は、幕営用具をシェアすることでこのでかいテントを担ぎました。まぁ若かったのでしょう。第一線をひいてからはもっぱら登山口での幕営にサーブしてくれています。

二代目三代目はいずれもアライテントの商品。エアライズとトレックライズ。テント生地の袋縫いスリーヴににジュラルミンポールをさしこんで一気に左右二本を生地の端のハトメ穴に差し込むだけ。そしてフライを被せる。よく考えられた商品です。前室も必要最低限。風にも強い山屋の為のテントです。もっとも両者の重量差は数百グラムもないのです。どちらを選ぶかは縦走路の厳しさ、高低差、それに気分という事でしょう。フライが赤いエアライズはアゲアゲ気分に、オリーブドラブのトレックライズは自然に溶け込む気分です。

テントの夕べ。テント泊は目的ではなく旅の手段。そしてテントは旅の一道具に過ぎません。全てを担いで歩く縦走登山ですから凝ったものは論外です。が、ストーブ一台で食べるフリーズドライでもラーメンでも十分美味しいのです。なによりも空気と風景が良く、そこまで歩き切った充実感が加わります。缶ビール片手に食べて、ウィスキーをちびちびやります。いつしか天空は黒いドームになり、星明りだけです。ランタンなど持ってくる余裕もなくヘツデンのみです。それすら野暮なので消してしまいます。少し寒くなります。シュラフに身を滑り込ませて、テントのジッパーを締めます。… そんな静謐なキャンプは素敵ですね。

さて初代テント、ムーンライトIIIを玄関に広げました。ポールに通っているゴムも伸び切っています。焚火で穴も空きました。まぁそれぞれ修繕しています。可愛いもので「やぁ、元気だったかい」となるわけです。そこで少し虫干ししてやろうとおもうのです。ちょとカビくさいのか、駄犬君も余り嬉しそうではありません。そこで消臭スプレーをかけまくりますが、さてどれほどの効果あるのか。そうそう、残りの二軒も、干してやろう。

見ているだけで旅心。テントはまさに旅の家。自由で、安全な一夜をくれる。すてきな旅の相棒です。さてと、、、。山旅ですね!

うう、このテントはかび臭いな!ここで寝るの?・・・スミマセン

モンベルのロゴといえば自分にはこちらがピンときますね。

八甲田では山スキーのベースキャンプになってくれました。エアライズ。

辛い飯豊縦走は最軽量のトレックライズで。北股岳が素晴らしい。門内岳テント場にて